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■ 谷崎潤一郎 『青春物語』 中公文庫 1984年(昭和59)9月刊 カバー・小出楢重「裸婦」 解説・磯田光一
府立一中、一高の同級生に、吉井勇(歌人)、辰野隆(フランス文学)ら。特に親密だったのは恒川陽一郎(歌人)、大貫晶川(しょうせん、詩人)、共に若くして亡くなった。
谷崎は1910年(明治43)小山内薫、和辻哲郎らと第二次「新思潮」創刊。その第3号で「刺青」を書き、心酔していた永井荷風を追いかけて手渡した。
1932年から33年(昭和7~8)『中央公論』連載。33年8月中央公論社から単行本、装幀木下杢太郎、巻頭に吉井勇の短歌5首。
既に文壇で確固たる地位を占めていた谷崎の青春記。府立一中、一高の同級生に、吉井勇(歌人)、辰野隆(フランス文学)ら。特に親密だったのは恒川陽一郎(歌人)、大貫晶川(しょうせん、詩人)、共に若くして亡くなった。
谷崎は1910年(明治43)小山内薫、和辻哲郎らと第二次「新思潮」創刊。その第3号で「刺青」を書き、心酔していた永井荷風を追いかけて手渡した。
「三田文学」に「谷崎潤一郎氏の作品」(?)と題する永井先生の評論が載ったのは、たぶん明治四十三年の夏か秋だった。永井荷風先生はその前の月の「スバル」か「三田文学」にも、私の「少年」を推挙する言葉を感想の中にちょっと洩らしておられたが、今度のはかなりの長文で、私のそれまでに発表した作品について懇切丁寧な批評をされ、しかも最大級の讃辞をもって極力私を激賞されたものだった。(略、雑誌が出るとすぐに買い、歩きながら読む)私は、雑誌を開けて持っている両手の手頸が可笑しいほどブルブル顫えるのを如何ともすることが出来なかった。あゝ、つい二三年前、助川の海岸で夢想しつつあったことが今や実現されたではないか(大学時代、谷崎は神経衰弱で常陸・助川で療養、荷風の「あめりか物語」に感銘した)。果して先生は認めて下すった。やはり先生は私の知己だった。私は胸が一杯になった。足が着かなかった。そして私を褒めちぎってある文字に行き当ると、俄かに自分が九天の高さに登った気がした。往来の人間が急に低く小さく見えた。私はその先生の文章が、もっともっと長ければいいと思った。……
喜びの文章が続く。
荷風の谷崎評を解説で磯田光一が紹介している。
明治現代の文壇に於て今日まで誰一人手を下す事の出来なかった、或は手を下そうともしなかった芸術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である。……
(平野)