2014年9月9日火曜日

竹林童子失せにけり


 島京子 『竹林童子失せにけり』 編集工房ノア 19926月刊(手持ちは同年72刷) 装幀 森本良成

 表題作他『VIKING』同人たちの人柄と文学を語る。主宰者・富士正晴を中心に、川野彰子、島尾敏雄、高橋和巳、三好郁男、武部利男ら。

「竹林童子失せにけり」

 富士は「竹林の仙人」と呼ばれた。住まいは竹藪に囲まれ、雅号は「丙丁童子」。

 昭和62年(1987715日夕刻、島のもとに富士の訃報が知らされた。神戸東灘の自宅から茨木の富士の自宅に向かう。慌てて財布を持っておらず、駅前の薬局でお金を借りた。ラッシュの始まる時間、島は胸苦しくなり咳き込む。

……えらいこっちゃわ、こんな車内でひっくり返る羽目になったら恥かしいやないの。切羽つまり、いまごろはすっかり不如意がとりのぞかれ、限りもなく自由になった身で、茨木市の安威(あい)の竹藪に囲まれた古い家を、おもしろがりながら自在に出入りしたり、上空からの眺めを、まあこんなものか、と納得し、たのしんでいるかも知れぬ富士正晴に、胸の奥で呼びかける。
 ちょっと、ちょっと富士さん、いまどこにいてんのか知らんけど、引っぱたらあかんよ。つい一週間ほど前の、七月七日、七夕の日に会うたときは、元気で仕事もする気になってるで、って言うててやったのに、えらい俄かの御出立やったんやねえ。びっくりしますやんか、あ、これ、引っぱるな。……

 友人・知人が相次いで亡くなると、先立った人が「引っぱる」というのが富士の口癖だった。4月に同人の一人が亡くなり、5月に入院中の同人も。そして、富士正晴。

 島は『VIKING』草創期の同人たちを思う。多くの人が富士のもとに集まり、去って行った。 
 島を『VIKING』に誘ったのは創刊メンバーでもある島尾敏雄だった。
 昭和25年(1950)春、元町の和菓子屋の喫茶室。島は当時新聞記者で、神戸外大講師の島尾とは顔見知りだった。島の父と同郷人だった。

VIKINGに、作品を書いてください。そして、ね、認められれば――誰だって、人からちやほや大切にされて、いやな気のする人はいないでしょう」
 ひかえ目で、寡黙な島尾敏雄が言うと、まぎれもなく真情が吐露されている、と受けとめられて、加えて、いかにもものを見る、というはっきりした目で、ひた、と見つめられると、断われなくなってしまうのだった。

 例会に出席すると、19歳の久坂葉子がいた。庄野潤三はアコーデオンを持って踊っていた。騒然としているが、陽気で笑いの多い例会だった。しかし、既に島尾は『VIKING』解散を提案していた。島尾、庄野、前田純敬が脱退した。

 葬儀翌日、VIKINGCLUB宛に島尾の妻から弔電が届いた。

 島尾敏雄は、茅ヶ崎在住時にも、顔を歪め、二度と会いたくないやつが富士正晴だ、と言っていたというが、いま背後の世界で、二人はどんな具合だろう。

(平野)
元町商店街HP更新されています。「【海】という名の本屋が消えた」は第10回。