2014年9月23日火曜日


 城山三郎 『鼠 鈴木商店焼打ち事件』 文春文庫 19753月刊(手持ちは89122刷) 解説 小松伸六 『文學界』連載(196466


 神戸の鈴木商店は1874年(明治7)鈴木岩治郎が外国産砂糖輸入商として開業。後に大番頭と言われる金子直吉の入社は86年。日清戦争後、台湾の樟脳事業に乗り出し、薄荷、製糖など多角化、さらに鉄鋼、造船、重化学など製造業を立ち上げる。第一次世界大戦で連合国相手にビジネスを展開し、1917年(大正6)には三井・三菱を抜いて日本一の商社になった。「鈴木」源流の大企業は現在も数多くある。

 大戦終了後、世界は不況。188月、米買い占めの噂から暴徒によって「鈴木」は焼打ちされる。関東大震災もあった。27年(昭和2)破綻。
 米騒動による焼打ちについて、通説では、大新聞による執拗な「鈴木」攻撃、既成財閥の策謀、政治家との癒着による台湾利権、さらに未開放部落民を暴徒に仕立てた、などの話があった。

 本書では、「わたし」が鈴木商店ゆかりの人物に聞き書き。
 倒産後も「鈴木」出身者たちによる会社がOBの遺児の面倒をみていたとか、金子や「お家さん」の人柄とか、追慕の会が続いているとか……
 事件・人物について多方面から検証する。これまでの鈴木悪者説を鵜呑みにせず調べて、前近代的経営と近代化推進派、中間派、多くの人材など金子を中心にした鈴木商店史を掘り起こす。

金子直吉像。

 肩幅の広い羅漢像のような体躯。大きな耳と、前頭の高いビリケン頭。鉄縁の眼鏡。乱視で近視、そして斜視。鼻が悪いので、いつもコカインの注入器を持っていて、鼻にふっかけている。
 夏冬通して、いつも同じ鼠黒の服。綻びても気にしない。ズボンはだぶだぶの袋のようで、折目などついていたことがない。しかも、ポケットはいつもふくれ上がっていた。冬には、そのズボンの裏に真綿をとりつけるので、いっそう不恰好になる。貧血気味の彼は、何よりも健康、そのための保温だけを考えていた。夏も、腹から懐炉を離さない。
 晩年には頭寒のためとあって、頭頂に氷嚢をのせ、くしゃくしゃの中折帽をいつもかぶって、落ちないようにした。そして、靴は、踵の低いもの。
 風采に関する限り、よいところなしである。

 服は季節に応じて生地を同色同柄で取り替えていた。

ヨーロッパで戦争が起きた時、金子は会計主任に命じた。

「今日以後は、鈴木の信用と財産とを充分に利用して出来るだけの金を拵え、極度の融通を計って貰い度い。又如何に行詰るとも、自分の戦闘力をにぶらせる様なことは言って呉れるな。盲目滅法だ、驀地(まっしぐら)前進じゃ。いよいよいかぬときにはにだけソッ言え。鈴木成すは、この一挙にある」(金子柳田両翁頌徳会『金子直吉伝』)
 国内の商売ではなく、海外から金(きん)をとることを考えていた。

 倒産して、金子は銀行に家財を取られ、定宿のホテルも出た。その時の句。

 落人の身を(すぼ)(ゆく)時雨哉
 貧乏に追いつかれけり年の暮れ

白鼠の俳号を持つ。

 築地の小松屋別館という小さな宿屋に引き移った。そこで直吉は、はじめて和服で炬燵にはいった。それまでは寝る寸前まで詰襟服を着ての生活で、絶えて着物に手を通したことはなかった。天下国家を望みながら、彼は本質に於ては、生涯、勤労者であった。鼠のように走り廻らねば生きて居られぬ人間であった。その勤勉さが鈴木商店を興し、そして、倒した――。

「お家再興」を目指したが442月、79歳で亡くなった。

「鈴木商店」についてはこちらを。
鈴木商店記念館 http://www.suzukishoten-museum.com/about/

(平野)