1948年から49年、雑誌『日本文庫』連載、57年現代社から単行本。
『悪太郎』以前。主人公の名は本書では今村東吾。
神戸市外の西にあった県立二中の入学試験に二年続けて落ちた私は、よんどころなく、東の原田村にある関西学院の無試験入学の手続きを取った。
頭は坊主苅りを嫌って二枚苅りにし、その頃の流行の短い将校マントを肩にひっかけ、久留米絣に小倉の袴を穿き、昨夜遅くまでかかって書いた入学願書や履歴書や手札型の写真を懐にして、中山手六丁目の家を出て、加納町まで歩いて電車に乗り、その頃熊内まで引かれた終点で下り、大根畑の白っぽい道を歩いた。軽やかな春風が吹くと雲母のような埃が舞い立ち、摩耶山や六甲山脈の萌えるような若緑を縫って紋白蝶が飛び交っていた。
2歳下の弟は県立に合格した。継母の叱言にうんざり。
学院の印象は最初から良くない。受付の書記が書類の年齢を見るなり、「どないしたんや」と聞く。2年県立に落ちた事を告白すると、
「ふむ。それで無試験の学院へ来よったんやな。此所は試験にでけん児を入れる私立の学校と違うんや。宗教学校やよってに自由というもんを尊重して入学させるんや。まあ言うても、しょむないが――」
と吐き出すように言って書類を受理して呉れた。私は此奴は、どの入学志望者にも同じような嫌味を並べて、無試験入学の腹癒せをしているのだろうと益々不快になった。
上級生による制裁もある。規則の遵守やら、頭髪の長さやら、院外での行動にも目が光る。
……私は内心、この宗教学校の自由は何時の間にか文部省好みの軍隊教育に摺り代えられていることを感じて、軽い後悔を感じはじめた。……
東吾は既に文学に目覚めていた。父母は読書家で、家に書物が並んでいた。社会主義の本もあり、東吾もおそるおそる読んでいた。優等生の土岐と文学を語り合う。当時谷崎潤一郎が売り出し中だった。谷崎に惹かれていることを話し、「白樺」について議論した。
女性に興味がいく年頃。一方、“少年愛”で上級生とケンカ。他校の不良ともケンカ。話のわかる先生と酒を飲んだり、売れない画家に付き合ったり、「赤マント」の今井あさ路とカフェーで酔っ払い「社会主義万歳」と叫んでしまって警察が学院に聴取に来たり。正月休みを目前にしたある日の夕暮れ時、家に同級生・四宮が訪ねて来た。土岐が大変だ、と言う。兵庫の土岐の家にいたところ、裁判所や警察が来て家宅捜索、父親は連行されたらしい。父は質屋をしていたが、どのような罪かわからない。東吾は友のこと、彼の家、家族のことを思いやった。元町を通って栄町から電車で向かった。
(土岐俊雄よ。しっかりしてくれ――)
と私は心で叫びながら、湊川の繁華街の明るい灯も眼に映らなかった。兵庫駅前で下りると、川崎のドックのある方角の、ごみごみした巷路へ入った。(略)どの位時間が経ち、どの位歩いたかわからなかった。四宮の将校マントの後から黙々として私は歩いていた。運命に摑まえられまいと念願した私は運命に摑みかからんばかりにして、土岐を摑んだ悪運に戦いを挑みたかった。私は闘争心を殺そうと考えたに拘らず、いつの間にか沸々と私の闘争心はたぎり立ち、どんなことをでもして土岐を助け救わなければならないと思うのであった。
「此所や」
一軒の質屋の軒下に立って四宮が囁いた。私はい俊その格子戸を開けるのがためらわれた。私は思い切って格子を開けた。暗い店の帳場に座っていた土岐は、こちらを振り向くと、
「来てくれたん……」
と穏やかな声で、苦しそうに笑った。私はその微笑を見ると、どっと涙が溢れ出しそうになった。
恋とケンカと友情と文学、熱い中学生。
(平野)