2014年9月7日日曜日

村上華岳(2)


 村上華岳  
足立巻一 『石の星座』(編集工房ノア)より

「村上華岳自筆墓誌」

 華岳の墓は諏訪山の東、追谷墓地にある。1921年(大正10)神戸市が寺院の墓地を集めて造った公営霊園。古墳跡があり、古い墓では源平合戦の武者のものがある。歴代神戸市長、鈴木商店創設者・岩次郎、大番頭・金子直吉他、神戸近代史を彩る政財界人・文化人・商人の墓が並ぶ。

 村上家は代々花隈の庄屋で、養父・五郎兵衛は神戸区有財産管理者という名士。文人墨客と交際し「光存」の号を持つ。

震一少年(華岳)が叔母の嫁ぎ先・花隈に引き取られたのは生家の没落による。実父は医者で蘭学者、漢学にも造詣が深い知識人だった。祖母は明治初めに孤児院を創設した人。華岳の教養の基礎は幼い頃の父に教えられたもの。だが、子を学校に通わせられないほどになっていた。
 震一少年は病弱だったが、絵が好きで、五郎兵衛がその才能を見つけ京都の美術学校に進ませた。「華岳」の号は花隈にちなんで五郎兵衛がつけた。養父母には子がなかった。旧家の跡取りとなるべき華岳に芸術の道を選んでやり、その経済力で華岳は生活に憂いなく描くことができた。
 1926年(大正15)五郎兵衛死後、華岳は花隈の家を「光存画室」と称した。墓銘を書いた。

「村上家累世之墓」はその時分建てられ、華岳は養父への敬愛の思いをこめて、その墓銘をみずから書いたのであろう。

 足立は華岳の書についても考察している。彼の書は、気分において豊かで麗しく、魄力があり、適度のユーモア、と。
 華岳自身も、有り合わせの筆、墨、紙でぶっつけ書き、文字が歪んで片寄ったり尻詰り云々と書いている。
「村上華岳之墓」の文字は、長男が華岳の死後に発見した。普段の「書」と趣きが異なる。

 しかし、「村上華岳之墓」の文字は、きわめて端正に書かれている。線は細めであるが、筆跡には力が張っていて鋭い。喘息に苦しみ、死期の遠くないことを悟った華岳は、ある日、端座し、体力・気力のすべてを筆先に集中して、自分の墓銘を人知れず書いたにちがいない。

 

(平野)