■ 足立巻一 『立川文庫の英雄たち』
中公文庫 1987年(昭和62)6月刊
解説 灰谷健次郎 カバー画 村田晴英 元本は1980年文和書房刊。
「立川」は「タツカワ」と読むのが正しい。原本に「タツカワ」とルビが打ってあるし、何より版元が「タツカワ」。「タチカワ」と読むのが一般的通称になってしまって、文学辞典の類も今やすべて「タチカワ」になっている。
「立川文庫」は明治末から大正末にかけて大阪の「立川文明堂」が発行した少年向け娯楽読み物。その源流から衰退、終焉まで。主人公たちの魅力、執筆者たちについて。
それまでの大衆向け読み物は講談の筆記本。講談社「講談倶楽部」が浪花節のストーリーを取り入れたり、講談師・落語家の演芸会を開催して人気となり、吉川英治という作家も誕生する。大阪でも「講談本」が大量に出版されていた。「講談」をそのまま速記した本から、その速記の文章を要約、加筆した本、新作講談をすぐに筆記する本など。「講談」という演芸が、席で聞くものから本で読むものに移っていく。
「立川文明堂」の立川熊次郎は兵庫県揖保郡勝原村(現姫路市)の農家の生まれ。農閑期は大阪に出稼ぎ、酒造りや製粉業で働いた。姉が女中奉公していた大阪の出版問屋・岡本増進堂に嫁入り。熊次郎は21歳の時、ここの店員になる。25歳で独立して取次業から始め、成功して出版にも進出し、実用書から講談本も発行するようになる。
明治44年5月、「立川文庫」創刊。『一休禅師』『水戸黄門』『大久保彦左衛門』『猿飛佐助』など全196点発行。現在の文庫サイズよりも小さく、1冊25銭。古い本に3銭つけると新しい本と交換するという販売方法もあり、子どもたちに喜ばれた。最初の読者は商家の少年店員=丁稚どんだった。
「立川文庫」の特徴。
(1)
世の権力に反抗し、これをやっつけ、あるいはからかうという人物が多い。一休、黄門、彦左衛門、曽呂利。庶民がつねに喝采するところ。
(2)
強力なものへ単身立ち向かって打ち勝つ勇者が多い。荒木又右衛門、岩見重太郎、宮本武蔵、豊臣方の武将。(3) 侠客、義賊、女賊が出てこない、人情噺もない。滑稽・武勇・忠節。色気なし。
(4) 物語が「漫遊」によって展開されるものが多い。
『立川文庫』の作者たちは、武鑑と道中地図とだけを机上に広げ、一日五十枚ほどの猛スピードで忍術使いやら、豪傑やらを書き飛ばした。構想をねったり材料を集めたりする余裕は全然なかった、という。それは結果的には他愛のないことながらも、既成の道徳や理念にとらわれない、自由な空想を広げることにも役立ったふうである。一種の自動的記述にも似ている。
その成立には忍術説話のパロディー化とともに、『西遊記』が原型となっている。
『西遊記』が玄奘の『大唐西域記』に神秘的伝説が加えられ、書き継がれよみつがれているうちに膨張する。説話人と呼ばれる演者によって語られ、劇になる。
『西遊記』は明の呉承恩によっていまのように大成されたというのが定説のようになっている。呉は文才がありながら文官試験に合格せず、不遇のうちに没したらしく、そういうこともあって『西遊記』は士太夫社会への憤懣がこめられ、それが庶民の共感を呼んだ。……
『三国志』『水滸伝』も同様で反体制が潜在している。
……すなわち、猿飛佐助は孫悟空を、三好清海入道は猪八戒を、霧隠才蔵もしくは由利鎌之助は沙悟浄を原形にしているように見える。さらに推量を進めれば猿飛佐助という庶民的で軽やかな名も、孫悟空が猿であったことから着想されたのかもしれない。……真田幸村は明らかに三蔵法師の類型である。……
しかし、流行はいつか廃れる。作者は創造力をなくしネタはマンネリ化。版元も情熱を失い紙質は悪くなり、誤字・誤植・乱丁が多い。東京の出版社の攻勢もある。中心的作者の死もあった。出版物を学習参考書に切り換えていく。
(平野)「ほんまにWEB」〈奥のおじさん さすらい月報〉更新しました。