2014年8月17日日曜日

笛鳴りやまず


 有本芳水 『笛鳴りやまず ある日の作家たち』 

中公文庫 1986年(昭和616月刊 
カバー・竹久夢二  
元本は1971年日本文教出版刊。

 有本芳水18861976)は姫路市飾磨の酒造家・廻船問屋の生まれ。岡山関西中学時代に同級生と『血汐』創刊、「芳水」を名乗り、詩や小説を発表し、文学雑誌に投稿した。早稲田大学入学後は若山牧水、北原白秋ら、学外では石川啄木、高村光太郎らと親交。卒業後、実業之日本社『日本少年』編集者、のち取締役。『日本少年』連載の詩は『芳水詩集』(装幀・竹久夢二)にまとめられ版を重ねた。戦後は岡山在住、大学で教鞭をとった。
 故郷の恵美酒宮天満神社に歌碑がある。

 播磨はわれの父の国 播磨はわれの母の国 飾磨の海にともる灯の その色見れば涙ながるる

 また、1990年「こどもの詩・有本芳水賞」が創設されている。

 本書は、芳水の長い編集者・文筆生活で接した59人の文人たちとのこと。明治・大正文壇回想録。紅葉、露伴、漱石、鴎外ら大物がズラリ並ぶ。

「投稿少年たち」より。
 芳水中学生時代、博文館『中学世界』は田山花袋主筆、大町桂月の学生訓が人気だった。東京府立一中・谷崎潤一郎は投稿の常連。特に「楠正成論」が名文で、芳水は谷崎を「投稿家の堯将」と呼んだ。芳水は和歌で“天賞”に選ばれている。
 博文館に対抗して、実業之日本社は『日本少年』と『少女之友』。両社は少年雑誌界を二分していた。

……『少女之友』にまだ無名のころの林芙美子が、少女小説を書いて持参し、原稿の買いとりを乞うたことがあった。丸ぽちゃで色白の、愛想のよい芙美子であった。『日本少年』の表紙は川端龍子が描き、満月を背景にして、黒マントを羽織った少年が橋上に佇んでいる絵とか、すすき野を絣を着た少年が歩んでいる絵とか、抒情的なものが多かったが、そのほとんどが学生帽をきちんとかぶっていた。
 文芸欄に投稿して入賞すると、銀メダル一個を授けられ、それが五個たまると銀時計一個と交換されることになっていたが、少年たちにとっては、その銀メダルや銀時計は憧れの的であった。
 評論家の大宅壮一、小説家の林房雄、映画監督の伊藤大輔など、大正初期の『日本少年』の投稿欄の常連だったが、思えば多士済々であった。

(平野)