■ 富士正晴 『桂春団治』 講談社文芸文庫 2001年1月刊
元本は1967年河出書房新社。68年に毎日出版文化賞受賞。
桂春団治(1878~1934)は映画や歌謡曲の題材にもなっている落語家。本来は二代目なのだが、その存在があまりにも大きく「初代」と呼ばれている。
明治44年、春団治は人気・実力とも上昇し、寄席の看板の並び順に不満。上方落語の大看板は「文枝」で、それを継ぐであろう「小文枝」という芸名の方が「春団治」より格が上=芸が上ということになる。
「わてはもう大分に売り出してブイブイいうてる時分だすがな……糞たれ奴、馬鹿にするなッ……」
春団治は4人の大師匠たちに頭を下げられた。桂派にとって大切な「芸名」だから辛抱してくれ、その代わり給料も待遇も良くするから、と。
……春団治は芸名「春団治」が芸名「小文枝」に全然歯がたたないことに深刻な無念さを感じただろうが、その解決方法は由緒ある芸名をつぎたいというのと逆に出た。つまり芸名「春団治」を芸名「小文枝」より、二代目春団治の力によって格の上なものにしてしまうことである。そして、それは後になって確かに成功した。……
春団治は芸の力によって「春団治」を大看板に高めたことで、「初代」を名乗って当然と考え、自ら「初代」と言い出した。春団治のことを面白く思わない人たちは「二代目」としておきたい。
笑いを得るために工夫をこらした。客席から現われ「へい、春団治でござい、へい、春団治でござい」と手で会釈しつつ高座にあがり、落語にとりかかった。正月、羽織の紋の部分が破れていて、その下に鼠の絵の羽織を着て高座に。落語はせず、その鼠の絵の由来をしゃべる。貧乏話、正月用の羽織がないので古着屋で安物を買ってきて自分の紋を紙に描いて貼り付けたが鼠にかじられて、そこに鼠の絵を描いて云々。その年の干支は鼠、客は話に引き込まれ、金持ちが羽織を買ってくれるし、普通の客も「スカタンやけどオモロイ奴や、また聞きに来たろ」となる。鼠の絵、実は紋の絵師を京都から呼んで描かせたもの。
富士は講談社の全集『20世紀を動かした人々第8巻 大衆芸術家の肖像』(1963年)で「春団治」を担当させられた。編集委員の桑原武夫や貝塚茂樹に文句を言ったが、桑原は「わたしが知っているから教えます」と言い、貝塚は「春団治は君にかぎるんや」と言う。桑原の話を酒席で聞くが、酔えば忘れて、また聞いて……。
……ついに素面の時きいて、晩年の春団治の自由奔放な芸やその進取の気性などを桑原氏が偉大としていることは判った。わしが教えてやるから書け、書くのを引き受けよはよいが、これだけでは大平原の端へつれて行って、さああちらの端まで歩けというようなものである。桑原武夫という人も相当偉大ではないかとわたしは少々呆れた。……
古い新聞・週刊誌を読みあさり、落語ファンに話を聞き、本を探し、ゆかりの人々を紹介してもらい文通し、寄席番組を欠かさず見て、レコードを聞き、遺族の了解をもらって戸籍を見……、「詳細綿密な調査と多彩な資料で裏付け書下ろした傑作評伝」。
(平野)