■ 久慈きみ代 『編集少年 寺山修司』 論創社 3800円+税
序にかえて――寺山修司の編集力
Ⅰ部 たった一人の編集者からの出発
第一章
「週刊古中」「野脇中學校新聞」の時代
第二章
新資料文芸誌『白鳥』を読む第三章 「青高新聞」の時代
第四章 青森高校『生徒会誌』にみる寺山修司
第五章 「三ツ葉」との交流
Ⅱ部 作品投稿の日々
第六章
「東奥日報」女性名のペンネームによる投稿
第七章
「青森よみうり文芸」への投稿――寺山短歌誕生の萌し第八章 「寂光」と寺山修司
第九章 「暖鳥」と寺山修司
第十章 「青年俳句」と寺山修司
作品略年譜 参考文献と資料
あとがき《追悼》寺山修司のふるさとを愛した九條今日子さん
著者は1948年群馬県高崎市生まれ。青森大学社会学部教授、中古文学(念のため、中古品とちゃいます、平安時代の仮名文学)および「寺山修司の青森時代」研究。
寺山の創作活動は華々しいものだった。俳句、短歌、詩、演劇、映画、小説、評論、歌謡曲もある。
さまざまな顔を持ち多方面で活躍した寺山修司であるが、もしかするとその原点は編集者。
著者は、寺山の言葉の力の源を彼の少年時代に見出す。
「週刊古中」(念のため、古い中古とちゃいます)は三沢市立古間木中学1年時、寺山が一人で編集した新聞。三沢の寺山修司記念館でその記事が著者の目に留まる。
大募集 漫画小説作文俳句和歌詩ふるって応募ください。投書箱へ(編集部と記入)
大募集 漫画俳句短歌作文ふるて(ママ)應募を望む。
先週新聞を発刊せず眞に申分けありません 編集長
……編集長、編集部とあるが実在しない架空のもの。大きな太字で仲間を募るために、必死に呼びかけた少年の心を想うと、涙が出そうになる。(略)
少年時代の作品創作の場をたどる過程は、平穏な日常生活の中で、ともすれば忘れている戦争が、いかに感受性鋭い少年たちに深い傷を与え、その人生に重い負担を強いることになったかを改めて認識する場でもあった。寺山世代は、戦争で亡くした父親を還してほしいと叫んだ世代でもある。
(寺山は父を失い、母とも離れて育った)
孤独な魂をかかえた少年は、とても一人でじっとしていられなかった。作品を創作する仲間と創作した作品を発表する場を求めて、突き動かされるように学級新聞や文芸雑誌の編集に熱中し続けている。そして、少年時代に行われていた編集作業は、生涯続けられている。
中2の時、青森の野脇中学に転校する。学級新聞に詩、小説、和歌、俳句を投稿。文芸欄は寺山の作品で埋め尽くされた。
母想ひ故郷を想ひ寝ころびて墨(ママ)の上にフルサトと画く (著者註、墨は畳の誤植か)
空遠く眸に浮かぶ母の顔
この頃、母は福岡の米軍キャンプに働きに行っていた。
……とがった才能を持った寺山の傷ついた不安な魂を救ったものは、友人たちとの文芸活動であった。孤独な悲しみを持った人間は、一人で居ることの寂しさに耐えられず、立ち止まってもいられなかった。仲間との文芸活動に熱中する時間は至福の時となり彼を救った。
(平野)