■ 富士正晴 『中国の隠者――乱世と知識人――』 岩波新書 1973年10月刊
目次
一『論語』
二 顔回三 漢王朝――政治と儒教の癒着
四『後漢書』の逸民伝
五 竹林七賢(正始時代)
六 陶淵明
おわりに
孔子の生きた春秋時代は戦乱に明けくれた乱世。政治の舞台から身を引いた賢人たちは隠者となった。
ある隠者が孔子に警告する。政治は危険と。別の隠者も、孔子の理想主義を批判し、またそれに従う弟子をも批判する。弟子がそのことを孔子に告げると、「鳥や獣と一緒にやれるわけがない。わしはこの人間仲間と組まなければ誰と一緒にやって行けるか。……」。
「鳥獣とは与に群を同じくすべからず」
研究者の訳は、「人間は鳥獣と群を同じくすることができない」。鳥獣は隠者をさす。
富士は、
しかし、ひょっとすると、「鳥と獣とは群を同じくすることが出来ない、そのように隠士とわれわれ革命家とは群を同じくすることは出来ないのだ。住んでいる世界がちがうのだ。自分は俗世の人と組まないで、誰と組めようか」というのかも知れない気が今している。
「『論語』の文章は簡潔すぎてはなはだむつかしい。孔子のいっていることより、隠者のいっていることの方が私には判りやすい。……厄介な本である。……(研究者)各人各説で混乱する……、素人ながら文句をつけたい」と言う。
中国は問答の国であるとわたしは思っている。日本は問答の国というよりは、問答無益、やれ! というところがあると思う。……中国人の、この問答、論争によって事を解決しようという気質は、儒者、政治家、軍人、隠者、革命家、一般庶民の間に、時代の上下を問わず、地の東西南北を問わず、本質的に存在していると思われる。……そもそも「子曰」の言いっぱなしの、モノローグめいた、講義めいたものの存在が何か気にくわない。(略)孔子の弟子、孔子の崇拝者たちの根性が気にくわない……わたしの気持からすれば、必ず問者、またはその答を引っ張り出してくるその時の事情、「情況という問者」を除去してもらっては困る……全く気にくわない。(略)固信心にはパロディででもつきあわねばどうにもならない。必ずやられてしまう。顕者と隠者との関係は固信心とパロディとのあいだの関係に似ていないでもない。……
(平野)