■ 足立巻一 『夕暮れに苺を植えて』 朝日文芸文庫 1995年9月刊
その苦い笑いと声とが、なんでもないはずなのに、わたしの記憶には強く焼きついた。
「帰ってゆっくり読みたまえ。きみも歌ができたら持って来なさい。とにかく会員にしてあげる。要はいろんな本を読んで、たくさん歌を詠むことさ」
「石川先生の歌、あれはいまでもおぼえとるぞ――夕暮れに苺を植ゑてうゑ終へず雨ふり出てぬぬれつつぞ植うる――どうだ? おれはこの歌、好きなんだ」
藤吉は歌をもう一度、微吟した。
装丁 阪田啓 表紙絵 神田昇和
単行本は81年5月新潮社刊。
足立の恩師・石川宗七――歌人としての名は石川乙馬――のこと。
昭和44年(1969)、足立は本居春庭(宣長の長男)研究のため松坂に来ていた。石川先生の郷里で、久しぶりにご家族を訪ねた。42歳で亡くなって33年。仏壇のそばに短冊があった。
数ならぬ吾をめぐりて友どちのなさけは注ぐ雨のごとくに
お墓まいりをした翌日、神戸に帰るつもりで宣長記念館の人たちにあいさつしていたところ、春庭の原稿束が見つかったとわかり、滞在をのばした。思いがけないことで興奮して、その夜は寝つけなかった。先生の遺稿歌集を自分が編もうと決心した。
先生との出会いは関西学院中学部。学院は、木立に囲まれ、赤レンガのチャペル・校舎、ハイカラな学帽、讃美歌と聖書講義。教師もクリスチャンが多く、やさしいが親しみにくい感じ。石川先生は風変わり。紺絣に袴、ふところ手。足立はいきなり教科書を読まされた。橘南谿『東遊記』の一節で、越中魚津の蜃気楼のことを聞き書きしている。足立はひっかかりながらどうにか読んだ。先生が朗読しながら説明を加えた。
先生は読み終わると、ひとりごとのようにいった。「南谿はほんとうに蜃気楼が見たくてたまらなかったんだな。……ぼくも見たいね」
そしてはじめて、苦笑のようなものを含みながら生徒の顔を見渡した。それから、呼吸をおいて、「ぼくも蜃気楼を見たことがない」その苦い笑いと声とが、なんでもないはずなのに、わたしの記憶には強く焼きついた。
先生が短歌を詠むと知って、春休みに先生の家に押しかけた。足立は当時啄木に打ちのめされていた。先生に短歌を見てもらった。50首の中からマルをつけたのは1首だけだった。
「啄木のまねをやってもダメだな。啄木の感受力は百年にひとり出るか出ないかの天才のものなんだ。(略)万葉集を読みたまえ」
そう言いながら、先生が筆写した島木赤彦の歌集と『香菓』という冊子をくれた。冊子は先生が出している同人誌。足立が「コウカ」と読むと、
「ちがう。キョウカと読む。『古事記』のカグノコノミからとった」
それから、やさしい声になった。「帰ってゆっくり読みたまえ。きみも歌ができたら持って来なさい。とにかく会員にしてあげる。要はいろんな本を読んで、たくさん歌を詠むことさ」
先生の筆名が「乙馬」と知ったが、「オトマ」か「オツマ」か。
一鶴と藤吉に『香菓』を見せて、彼らを会に誘った。藤吉は「イツマ」と言った。一鶴は「オトメ」。足立は先生に読み方を聞くこともなく先生は亡くなった。
知ったのは30数年たってから。歌集編集で、先生の親友を訪ねた時。若き日に恋した芸者の源氏名と。一鶴が正解。一鶴は戦死していた。
藤吉の息子の媒酌人を頼まれる。式場は生田神社、自分たちの「古戦場」。筆名のことを藤吉に話した。
「へえ、オトメか」
藤吉はふしぎそうな声を出してから、突然、上気した語調になった。「石川先生の歌、あれはいまでもおぼえとるぞ――夕暮れに苺を植ゑてうゑ終へず雨ふり出てぬぬれつつぞ植うる――どうだ? おれはこの歌、好きなんだ」
藤吉は歌をもう一度、微吟した。
足立は先生を父のように思った。短歌だけではなく、勉強でもお世話になる。先生の母校・神宮皇学館を2度落ちている。
筆名のこともそうだが、編集過程で、決して平凡ではなかった先生と周囲の人びとの歩みを知る。
(平野)