2014年8月11日月曜日

東光金蘭帖


 今東光 『東光金蘭帖』 中公文庫 1978年(昭和538月初版(手持ちは813版) 元本は57年中央公論社刊。

解説 今日出海  カバー 吉田克朗

 今東光18981977)、横浜生まれ。父が日本郵船の船長で10歳から神戸で育つ。関西学院中等部3年時に恋愛事件で退学。転校した学校も追われ、以後独学。川端康成の新感覚派運動に参加。1930年(昭和5)天台宗出家。56年(昭和31)「お吟さま」で直木賞受賞。
 本書は師・友との交流記であり、青春記。

目次  菊池寛 横光利一 片岡鉄兵 直木三十五 藤沢清造 川端康成 尾崎士郎 谷崎潤一郎 宇野千代 ……

「菊池寛」

「易経」に、親しき交りのことを金蘭という言葉で表現している。
 菊池寛と僕とは、いまから思えば、つまらないことから喧嘩して、終生、交りを絶ってしまった。死ぬまで絶交するほどの大事件とも思われないことで、そうなってしまったのだから、これも運命と観ずるより仕方がない。……
 金蘭の喩えを持ちだすのは、僕だけに耳におかしく聞えるかもしれないが、過去を振り返って、誰を思い出すかというと菊池寛だから不思議なものである。三十余年の歳月は僕の金蘭帖の筆はじめにこの人のことを書かずにいられないものを醸成しているのだ。……

 芥川龍之介家での出会い、川端「新思潮」参加の経緯、『文藝春秋』参加、菊池に教えられた処世訓と生活第一主義。

 僕等が文学をはじめた頃の決意と言えば、極めて悲壮なものだった。どうせ世間からは三文文士と言われるのだから、はじめから覚悟が出来ていた。「陋巷に朽ちる覚悟」なくして原稿用紙の桝目なんかに字をうめられるか。まったく空しいほど、報われることない努力だった。そういう覚悟と決意とを抱いた筈の文士が、ちょっとした邸宅をかまえるようになったのだから驚くべき進歩と発展と言えるかもしれない。そういう機運をもたらしたのは確に菊池寛その人である。当時、菊池寛の功罪を論じた人が、功よりも罪重しと断じたのは、畢竟、文士等の滔々たる生活第一主義が、文学をも冒瀆する傾向にあったからだと思う。今から思えば、こんなこともいたって瑣事で、大した贅沢とも言えなかったのいである。戦後の文学者の豪華な生活に比較したら、殆んど中産階級の下流に位する生活に過ぎなかった。……

「川端康成」

 僕が放浪中と言えば聞えは酔いが、実は何度目かの勘当をくらって、本郷の赤門前をぼんやりと空腹を抱えて歩いていると、かんかんとお天道さまの照っている歩道を、寮歌か何か声高に歌いながら歩いてくる一高生があった。
「東さんやないか」

 神戸の幼なじみトラ公だった。今は彼の寮に入りびたる。川端が同室だった。今は「刎頚の交わり」をすべき人物と感じた。徹夜して勉強、議論。彼らが一高から東大文科に進むと今も東大に。いわゆるてんぷら学生。あちこちの教室にもぐりこみ、劇研究会にも参加した。
 川端が一高・東大直系の文学同人誌「新思潮」を継承して発行すると決意。今を同人に誘う。川端は今の参加を菊池寛にも相談していたが、「不良少年、一高も東大も出ていない」と反対した。

……川端は僕との交情を縷々と述べて「あれを入れない位なら、僕も入りません」
 と言い切ったので、さしもの菊池寛も承認して呉れたということだった。
 僕はそれを聞いた晩、眠れなかった。川端の善意と友情を、これほど肝に銘じたことはなかった。この時、僕を除外して「新思潮」を継承しても、僕は文句の言いようがなかったのだ。その僕を同人たらしめるために、「新思潮」を継承することを断った川端の友情というものは、これは僕の運命の分岐点につながるものだけに僕は終生、忘れることが出来ないのだ。単なる友情などというものではない。
(平野)
「ほんまにWEB」〈海文堂のお道具箱〉更新。第5回はシークレット・ゾーン。ドアをあけると、時には作家さんもいた? http://www.honmani.net/