■ 今東光 『悪太郎』 角川文庫 1961年(昭和36)10月初版(手持ち67年19版)
元本は1959年中央公論社刊。
今東光の自伝的小説。主人公紺野東吾は関学中3年、牧師の娘との恋愛沙汰で退学処分。淡路、但馬へ。本書の前段として『悪童』(57年、現代社、のち角川文庫)がある。
東吾が応援隊の練習をさぼって原田の森で狸穴を探していると、仲間が呼びに来る。母親が学校に呼び出されている。成績不良のため。母が弁解、父親が船員で留守がちのため甘やかして、手こずって……。
紺野はどうせ処罰されるのだろうが、処罰の主体の行方がつかめない。
不良少年ということになっていたが、それは中学生にあるまじき小説本を耽読するというのが理由であり従って資格だ。紺野は自分を不良少年とは思っていなかった。文学が好きだということが、どうして不良なのかわからない。中学生にはトルストイもドストエフスキイもバルザックもスタンダールもゲーテもストリンドベルヒも読んでは不可いのだろうか。こういう合点のいかない非難は承服することが出来ないのだ。
父親が留守だから不調少年を生むという論理ほど愚劣なものはない。ましてその不良少年たるや単に小説が好きだというだけだ。父親の留守をねらって小説を読む奴があるだろうか。小説を読むには父母の在否、昼夜の区別、年齢の差別はないのだ。そんなことを得々と喋る母親も癪に障った。……
教師の説明は、数学が極端にできない、これは怠けているからだ、数学の先生宅にあずけて勉強させる。
学院随一やかましくて怖いミミズク(内村)先生の家で数学責め。しかし、先生の目を盗んで小説を読む。先生秘蔵の焼酎の梅漬けを盗み食いする。“元町の赤マント”と呼ばれる人物(この人についてはいずれまた)が訪ねて来て一緒に写生していると近所の人が集まって来る……。学院の牧師の娘・あや子と恋愛、デートは神学部学生の監視つき。ついに牧師・父が現われて彼女を連れ帰る。談判するが通じない。あや子は広島に転校させられ、東吾は論旨退学(他の学校に転学できる)。
彼は表玄関にさしかかると、檜の一枚板の看板を眺めた。
それには私立関西学院中学部と、墨痕淋漓と愛石流の筆法で書いてあった。「畜生」
と呟きながらそれをはずすと肩にかついだ。
(電車道まで出て人力に乗る。行き先は布引の滝)
紺野は看板を抱えおろすと、橋の欄干まで来てしたをのぞいた。水は涸れて所々白く光っていたが、それでも石と石の間を一筋、青白く闇の中に光っている。
「えいッ」
(看板を川に放りこんだ。人力の車夫が驚く。事情を説明すると)
「あんたみたいな学生さんなら、先方さんは厄介払いした思うてまっせ」
「そりゃほんまや」
(車夫が看板をもらうからと車代はタダにしてくれる。ミミズク先生の家に帰る)
その夜は流石に眠れなかった。これから先のことは考えるにもおよばないが、可愛がって下された内村先生には合せる顔がなかった。明日の別れを思うと胸がつぶれる思いがするのである。
淡路でも豊岡でも女性問題。青春のエネルギー。
(平野)