2014年10月26日日曜日

金山平三(2)


 飛松實 『金山平三』 その2

 平三は在学中に展覧会に出品しなかったし、帰国後の記念展も開かなかった。飛松はこう説明している。

……彼が作品発表に臆病と思われるほど慎重だったのは、生来の性格と思うより他はない。……自作に対する批判反省が人一倍厳格で、瑕瑾をも許さず十全を求めてやまなかった性格によるものと思わざるを得ない。

 帰国後の肉体的・精神的不調もあった。
 初めて文展(文部省美術展覧会)に出品したのは1916年(大正5)、「夏の内海」と「巴里の街」。前者は特選第二席で文部省買い上げ(現在東京国立美術館蔵)となった。翌年、「氷辷り」が特選第一席。もう一作「造船所」を出品、神戸の川崎造船所を描いたもので、これを機に同社社長と終生親交を結ぶことになる。さらに翌年、文展無鑑査推薦作家となり、帝展(帝国美術院、文展から衣替え)審査員。

 1917年、御茶ノ水女子高等師範教授・牧田らくと見合い。彼女は東北帝国大学で数学を学んだ日本最初の理学士。金山家と昵懇の幼稚園園長を通じての紹介。出会いから結婚まで3年を要した。互いの仕事、暮らす場所、経済的なこと、相続のことなど難題がいっぱい。らくは東京で教師、平三は写生旅行で全国に出かけ、時には海外にも行く。金山家を平三が継いで家業を見てくれれば父・春吉は安心だし、平三も経済的不安はなくなる。しかし、画家の道は捨てることはできない。苦しい胸のうちをらくに書き送っている。

「東京に行くにも食うて行かねばならぬ事も、神戸の留守宅を淋しくせぬ事も心得ねばならず……

 しばらくは東京で家を借り共同生活。らくは教師を続け、平三はそこを足場に全国をまわり、神戸を行き来することになる。らくは優秀な教師であり研究者でもある。周囲も彼女が家庭に入ることを惜しむ。東京女子大学が創立され、彼女に教授の話がきた時、平三が学長に断わった

「一体あなたの学校で妻が数学を教えねばならぬ娘達は幾人ほどあるのですか」と茶目気たっぷりな顔つきで問いかけた。「一組二十人位ですが」とのとの答を引きとった金山は、「二十人ばかりの娘っ子に役に立たぬ数学を教えるのと、この金山平三をして後世に名を残す名画を思いのまま描かせるのと、妻としてのつとめはどちらが重いと思いなさる……

 自分勝手な論理だが、それほど大事な存在だったし、彼女も平三の才能を認めていた。教師も辞め、暮らしは彼女の貯金に頼ることになる。平三の審査員の報酬がどれくらいあるのかは不明だが、画材や旅行にも足りないだろう。後にアトリエを新築する時は理解ある財界人4人が出資してくれている。平三は作品を贈って償った(特に金額の多い1人には半分を現金で返済した)。他にも二人の人柄を見込んだ援助者がいた。
 らくの苦心はお金のことだけではない。機嫌よく絵が描けるよう環境づくり・雰囲気づくりにも気を遣った。日本舞踊の好きな平三のため自分も地唄や三味線、社交ダンスを習った。平三が絵に向かっている時、らくは数学研究に取り組んだ。

 五十年近い夫婦生活を通じて、二人はただの一点も、自分達から絵を売りつけたことはないという。画家の夫人の中には、自らマネージャーとなって作品の頒布に努力する人もあるが、売り絵は絶対に描きたくないという平三の意を体して生活の困苦と闘って来たらくの毎日は、想像以上のものがあったようだ。子供がないのは、産めなかったのでなく、産まなかったのだという。育児や学資のため、換金し易い売り絵を心ならずも描くことがあっては、という遠慮からであった。

「描くのは主人ですが、出来た作品は二人の子供だと思って大切にしました。たとえ一点でもこちらから身売りなどさす気にはなれませんでした。ただ、相手によってはお嫁にやるつもりでお譲りしたことはあります。……(つづく)
 裏表紙の絵「菊」(1945~56)。

(平野)