■ ヴァレリー・ラルボー 岩崎力訳
『罰せられざる悪徳・読書』 コーべブックス 1976年(昭和51)6月刊
ヴァレリー・ラルボー(1881~1957)、フランス・ヴィシー市生まれ、詩人・小説家・翻訳家。英語他ヨーロッパの各言語に通じていた。35年脳溢血で倒れ、亡くなるまで半身不随・失語症に陥った。裕福な家庭だったが、家・土地を処分せざるを得なくなり、蔵書も売った。幸い蔵書はヴィシー市が買い入れ、現在も図書館に約2万5千冊が保存されている。
本書は1923~24年にかけて執筆された読書論。
冒頭、アメリカの詩人、ローガン・ピアソール・スミス(1865~1946)の詩を引く。
慰め
先日、打ちひしがれたような気持で地下鉄に乗っていたとき、私は、われわれ人間の生活に留保されたさまざまな喜びのことを考えながら、そのなかに慰めを探し求めていた。しかし、ほんのすこしでも関心を払うに値する喜びはひとつとしてなかった。酒も栄光も、友情も食物も、愛も徳の意識も。してみれば、このエレヴェーターに最後まで残り、それらに比べてより陳腐ならざるものはなにひとつ提供してくれそうにもない世界に、ふたたび上っていく価値がいったいあるのだろうか?
だが突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続するあの陶酔があれば、それで充分だった。
ラルボーはこう続ける。
事実、読書は一種の悪徳なのだ。私たちがつねに強烈にな愉悦感をもってたちかえる習慣、私たちがそのなかに逃避し、ひとり閉じこもる習慣、私たちを慰め、ちょっとした幻滅の憂晴らしともなる習慣、そういった習慣がすべて悪徳であるように。しかしそれはまた、美徳に導かれるかのような幻想、それが垣間見させる至高の叡智に導かれるかのような幻想を私たちに抱かせる悪徳でもある。……
読書が悪徳だというのは、また、つぎのような理由にもよる。すなわち、経験に照らしても統計のうえからも、これは、他の悪徳と同じく、例外的で異常な習慣だということ。正常な人間が本を読むのは職業上の必要に迫られてのことであり、さもなければ仕事や労苦から気をまぎらわせるためである。読書の楽しみだけのために読書し、熱心にその楽しみを追い求める人間は例外的存在なのである。ほとんどすべての人間が文字を知っており、また多かれ少なかれ本を読むからといって、その事実に欺かれてはならない。文字が読めるとはいっても、大部分は、自転車に乗れるとか電話が使えるとか、車の運転ができるとかいうのと同じことであり、賭博師は守銭奴が少数であるように、読書人は少数派なのである。……
(平野)
“関西の蚤の市”で見つけた。【コ】時代、「出版」には呑む時以外関わっていない。というより、入社したばっかりで、どの本見ても、「ヘー! ホー!」しか言えなかった。あの出版物たち、今となってはなかなか入手できない。