■ 永田和宏 『現代秀歌』 岩波新書 840円+税
2013年刊『近代秀歌』(岩波新書)以降の歌人100人を取り上げる。
第一章 恋・愛――ガサッと落葉すくふやうに
第二章 青春――海を知らぬ少女の前に
第三章 新しい表現を求めて――父よ父よ世界が見えぬ
第四章 家族・友人――ふるさとに母を叱りてゐたりけり
第五章 日常――大根を探しにゆけば
第六章 社会・文化――居合はせし居合はせざりしことつひに
第七章 旅――ひまはりのアンダルシアはとほけれど
第八章 四季・自然――かなしみは明るさゆゑにきたりけり
第九章 孤の思い――秋のみづ素甕にあふれ
第一〇章 病と死――詩はそこに抗ひがたく立つゆゑに
私たちは、日々の暮らしのなかで、はたしてどれだけの思いを相手に伝えられているだろう。伝えるべき相手が大切な人であればいっそう、伝えるべき内容が大切なことであればいっそう、それを日常の言葉で伝えることが絶望的にむずかしいことに気づくものである。大切な人に大切なことを伝えようとすると、日常の言葉ははなはだしく無力である。言葉に出してしまうと途端に嘘っぽく聞こえ、気障に見え、しかも思いが深ければ深いだけ、その何分の一も表現できていないことに愕然とする。
そんなとき、歌でなら伝えられるということがある。歌を表現の手段として持つということは、そのようなどうにも伝えにくい、心のもっとも深いところにハッスル感情を、定型と文語という基本の枠組みに乗せて、表現させてくれるものなのである。(略)そしてそうした歌の力は、誰かに読まれることによって、さらにいきいきした力を発揮する。……
歌は「多くの人に口ずさまれてこそ生命をもつ」ものであるが、「人たちが身を削って作った歌を積極的に残してゆく」ことも大切。いい歌を作ることも、いい歌を残していくことも歌人の責任、と言う。
「恋」の歌から。
たちまちに君の姿を霧とざし或る樂章をわれは思ひき 近藤芳美
戦争中、近藤は朝鮮にいた。宿泊歌会で会員たちが金剛山に集まる。そこで運命的な出会い。一足先に山を下りる彼女を見送る。
山を下っていく少女を見送りつつ、その時、どんな「樂章」を思ったのか。(略)戦争へなだれようとしている〈外地〉にあって、なお一知識人として流されず立っていたいとする、若い学生の自負を見る思いがする。〈愛の思い〉は現在の若者に変わることはなくとも、戦争あるいは徴兵という否応のない強制を前にして、率直な愛の表白を阻む環境が若い男女にたしかに存在したのである。……
「災害」もある。
居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ 竹山広
1995年1月17日、阪神・淡路大震災。
ある事件が起こる。災害に見舞われる。犠牲者が多数でる。死ぬ必要も、必然もまったくなかった人々が、たまたまそこに居合わせたというだけで、事件や災害に巻き込まれ、命を落とす。なんという不条理なと嘆くが、人の命というものは、そんな風にして決まってゆくものなのかもしれない。(略)
竹山の一首は、まさにその通りだと頷かせるだけの説得力をもっているが、それが殊更深い感慨をもって読者に受け容れられるのは、もう一つの竹山広の個人史があるからである。竹山広は、昭和二〇年八月九日、長崎で原爆に遭遇したのである。……
全身焼けた兄を救護所まで運ぶが息絶える。そのことを詠えるまで25年の時がかかったそうだ。
(平野)しばらくお休みします。