■ 田中康夫 『神戸震災日記』 新潮文庫 1997年(平成9)1月刊(手持ち、同年3月3刷)
1956年東京生まれ、作家、政治家。
95年1月、阪神・淡路大震災発生4日後の21日早朝西宮に入った。日用品物資を被災者に手渡してまわった記録。96年新潮社刊。被災地に行くと決めた理由は……、交際中の彼女の実家がある、関西人の血が4分の1流れている、京・阪・神他各都市の風土がそれぞれ好き、過去に交際した女性も関西の人が多い、小説やエッセイにたびたび題材にしてきた……。宝塚・西宮・芦屋・神戸は地図なしで運転できる、裏道も知っている。
……その知識を活かして、世話になった街に恩返しをしようじゃないか。エエ格好しいの発言を敢えて行なうならば、そういう生理だ。……
あちこちの市役所に電話でボランティアを申し入れるが「間に合っている」の返事。西宮のカトリック大司教館に電話すると、バイクがあれば物資搬送可能と啓示。大阪在住の知人に50CCバイクを手配してもらい、荷台に衣装ケースを括りつけリュックを背負って、
……裏道を走りながら途中で何人かにペットボトルを手渡そうとすると決まって、もっと困っている方にどうぞ差し上げて下さい、と最初は固辞する。阪神間の人々は皆、冷静で慎み深い。
何を仰る、困っているのは貴方なんですよ、と心の中で叫びながら、教会で知り合った若い信者の青年と共に二日間、全国から教会へ届いた物資をテント生活者や半壊住宅に暮らす人々に手渡す作業を続けた。
東京と往復して、付き合いのある企業をまわって物資を提供してもらう。
夙川の土手に桜が咲く迄は週に五日、関西に入って走り続ける積もりだ。大企業を脅して貰ってきた物資を配ってるだけじゃないかと嘲弄されるかも知れない。風呂付きの部屋から出動するなんて偽善だ、と冷笑されるかも知れない。反論は、すまい。が、出来ることを出来る範囲で行なうのがボランティアなのだと思う。そして、阪神大震災とは、イデオロギーに関係なく人々がボランティアし得た、初めての契機となるのではないか。……偶々、物書きという何処に居ても出来る生業だったから、こうして“一人赤十字”を気取ってられるのだ。
連載を数多く抱える売れっ子だった。原稿は早朝に片付けた。寒風の中、100キロ前後走り被災者と接した。その活動で見えてきたマスコミ・大企業・為政者・文化人たちの「勘性と温性」の低さを皮肉る。
それまでも鋭い社会時評をしていたが、これを機に神戸空港建設反対運動のリーダーになった。
(平野)