■ 飛松實 『金山平三』(その4)
飛松は1907年生まれ。小学校教師を経て川崎重工業の社長秘書になった人で、歌人でもある。
「社長にお逢いしたいと変なお爺さんが見えています」と受付嬢が告げて来た。
なるほど長身痩躯、彫りの深い容貌の老翁が浴衣がけに禿び下駄で、縁の大きい日よけの麦藁帽を手に立っている。その風采にくらべて眼の鋭さがただ人とは思えない。
「手塚さんおられたらお取りつぎ願えませんか、金山です」私は社長室へ行った。
「社長、金山とかいう老人が見えていますが、ご存じですか」
「ああ、金山平三だろう。絵描きさんだよ」
案内した後、さっそく画家名鑑を見ると、洋画家無所属の最上位にその名があった。しかも神戸出身のようである。これが金山平三と私との最初の出逢いであった。昭和二十六、七年頃の真夏のことで、川崎重工業の本社がまだ神戸工場の中に置かれていた時である。
造船所内を写生したいと言うので案内する。画家からよく写生の希望があって入れてあげるが、たいていの人はあとから作品を買ってほしいと言ってくる。
平三が来社したのは翌年1月末。正ちゃん帽に毛糸の首巻き、ズボンに帯、下駄履きという格好で受付嬢が驚く。夏に描いた絵のことを尋ねると、東京のアトリエにあると言う。平三は気の済むまで作品に手を入れる。作品を金に換えることを考えていない。
61年(昭和36)社長が平三の「造船所」(1917年、川崎造船所を描いた作品)を会社に飾りたいと、飛松に交渉を頼んだ。平三は、以前から寄付するつもりでいた、礼はいらないと言う。また、アトリエにある作品を散逸させたくない、どこかで一括保管してくれないか、悩んでいた。
「百年二百年後に本物かどうか分って貰うためです……」
飛松が社長に相談、新築する本社ビルに展示場兼収納庫を設け、保管することになった。川重は、作品を手離す平三の心中を思い、感謝を込めて平三夫妻にヨーロッパ旅行をプレゼントした。平三にとっては50余年ぶりの渡欧だった。
川重が預かった作品は神戸新聞の要請を受け、翌年大丸神戸店で展示された。平三が神戸で開催する初めての作品展だった。平三の死後、この作品群はらく夫人と川重の合議により兵庫県に寄贈された。
心血を注いだ作品を愛惜し、手離すことを惜しんだのは、一人ひそかに自ら頼むところがあったからである。目まぐるしく変転してやまない画壇などには重きを置かなかった。五年や十年の流行に左右されるものは本物とは言えない、という確固たる信念のもと、知己を百年の後に待つべく決意していた。
孤高の芸術家がいて、その人を支える人・応援する人たちがいる。
写真は本書所収、平三夫妻と著者。(この項おわり)
(平野)