■ 飛松實 『金山平三』 その3
1935年(昭和10)5月、平三生涯最大というべき事件が起きる。
“帝展騒動”といわれる帝国美術院改組問題。国家による“文化統制”。政府主導による美術団体統一――在野の美術団体代表も加えて美術家全員一致の体制づくり――を実現しようとする。洋画部門では東京美術学校校長・和田英作が文部大臣の諮問を受け、画壇の実力者に相談することなく独断で事を運び反発を招いた。平三は恩師・黒田清輝と大先輩・藤島武二に信頼され帝展審査員に抜擢された。黒田亡き後のリーダーは藤島だが、無視された。また、審査で平三は和田とことごとく対立していた。……新人審査員となった金山平三は、つねに厳正な作品第一主義を守ろうとした。それが事勿れ主義、温情主義、各会派均衡主義の一部先輩委員と対立衝突せざるを得なくなるのは当然の成行きであった。
帝展より在野グループの方が活躍していたことも事実。
平三は審査委員だが帝展会員ではなかった(会員は政府任命)。次期候補の筆頭であったが、改組で新会員は政治力によることになった。平三ら反対者は帝展を脱退し、在野団体・第二部会を結成した。帝展独立、官展廃止、在野団体補助奨励を目指した。しかし、翌年再び美術院が改組され、旧帝展無鑑査画家全員招待展案が出て、よろめく者が出る。第二部会は分裂する。
……画壇に対する理不尽な官権圧力に、最後まで反抗を誓い合った同志が、甘言につられ安易に敵軍門に屈服せんとする不甲斐なさ。利害得失を計算して行動する芸術家たるに値しないその俗物性。あまつさえ同志を疑い傷つける卑劣さ。そうした画壇に心から愛想がつき嫌悪を覚えた。最も大切な画家本来の意地はどうなったのだ。自分はあくまでその意地を通して見せる。
画壇と訣別する。平三は写生旅行で山形県大石田町をたびたび訪問。戦中は最上川対岸の横山村に疎開している。
……大正十二年初めての来訪の時、言葉が通じなくて外国へ来たようだと書送った彼も、疎開時代には全く町民になり切っていた。写生から帰って、風呂の沸いている家があれば、どこでも気がねなく入れて貰うほどであった。(婦人たちに得意の日本舞踊を教えた)
人間嫌いと思われていた平三ではあるが、それは権威を笠に着る役人や、記者や画商や、欲の皮のつっ張った連中に対してであった。
郷里に疎開していた斎藤茂吉もしばしば大石田に来て、平三を訪問。初対面で意気投合した。茂吉の方が1歳上だが、平三を先生と呼ぶ。
茂吉の弟子の証言から紹介する。町の有力者が二人を招待して食事。茂吉が平三の魚の方が大きいから交換してくれと言う。
「あんたの食いしんぼうは解っているよ」
「いや、これはどうも。……あのうー先生、やっぱりほっつの方がおっけがったっす。ほっつの方ば寄越してけらっしゃいっす、はあ」画伯は大きく笑い出し、再び皿の交換をした。……
茂吉はさらに弟子と招待者の分まで食べて、みやげまで持ち帰ったらしい。気難しいことで有名だが、天真爛漫な一面がうかがえるエピソード。
二人は一緒に絵を描き、小旅行するなど、茂吉帰京まで親交した。(つづく)
扉・写真。花隈の金山宅。現在は石碑だけが町内の自治会館に残る。
(平野)