2014年10月25日土曜日

金山平三


 飛松實 『金山平三』 日動出版 1975年(昭和509月刊


 金山平三18831964)は元町通3丁目の生まれ。父・春吉は当時旅館蓬莱舎番頭。母は平三が生まれて3年後に亡くなり、継母・すてに育てられた。すては5丁目で料理屋を開業した後、花隈に移って芸妓置屋を始めた。花隈の金持ち・土地持ちと評判だった。
 平三は神戸尋常小学校卒業後、高等科を1年で退学し、同志社予備学校に進学するが、寄宿舎の炬燵から失火、半焼、放校処分となった。奈良中学に入学、いたずらすぎて寄宿舎を追い出され、校長の家の近所に下宿させられる。絵を描き始め、教師から高い評価をもらう。ここが廃校になり、東京の立教中学に転入。中学卒業に10年かかっている。本人の腕白もあるが、運も悪かった。
 1904年東京美術学校洋画科入学、黒田清輝に師事。学業・品行とも優秀で特待生、首席卒業。1912年からフランス留学。美術学校留学生の資格だが、費用は自費。黒田から官費留学の話があったものの、帰国後学校勤務が条件。平三は断わった。費用はすてが工面してくれた。留学中にすてが他界、春吉は送金のたびに持ち家を処分し、4年間で自宅だけが残った。
 平三はモンパルナスに居住、ヨーロッパ各地を旅行。ちょうど第一次世界大戦で、一時パリから避難している。当時パリ滞在中の文化人は、梅原龍三郎、島崎藤村、藤田嗣治、安田曾太郎、与謝野鉄幹・晶子ら。皆交流があった。
 画家仲間の証言がある。平三は絵ハガキに余分に切手を貼るので「モッタイナイヂャないの」と返信で叱られている。また、いつも腹巻にお金を入れていて、「金山の腹巻」は仲間の間で有名だった。
 1511月ドイツ軍攻撃の危険の中帰国。春吉は神戸港で4年ぶりの息子を迎える。

 下船が始まっても、なかなか平三は現われなかった。ほとんど終わったかと思われる頃になって、ようやく舷側を下りてくる姿が目についた。独特の鋭い眼光は変わらぬながら、蓬髪弊衣、痩せ細って西洋乞食さながらの恰好で現われたのに春吉たちは仰天した。フランス帰りなどというモダンな幻想に富む言葉とは似てもにつかぬ平三の風体であったからである。春吉は後々まで、
「あの時ほど人前で恥ずかしい思いをしたことはなかった」
 と語っては、いつも大笑いをしていたという。

 正月、平三は伊勢神宮に無事帰国の参拝をしている。フロックコート・オペラハットの正装であった。(つづく)
 表紙の絵は「雪丈余」(191734)。

(平野)