2014年1月25日土曜日

月刊神戸読書アラカルテ(10)


 【海】史(10)―10

 『月刊神戸 読書アラカルテ』(10

「月刊」時代に大きな出来事があった。

1198010新再販制度で、非再販商品=非定価本販売が可能になった。

2)同年同月、コーべブックス、南天荘書店との3店合同フェア「神戸から読者へ」開催と、フェアのための冊子『神戸図書ガイド』作成・販売。既に書いた。

38112月、新店舗建設、開業

 新店舗建設のため、81816日をもって旧店舗での営業を終了。仮店舗2ヵ所で営業した。(1)(3)については改めて書く。

『アラカルテ』も8月発行の21号で休刊

――新店が完成したあと、気力が残っていれば、また続けていきたいと思っています。多くの人たちの励ましに感謝しながら、遅ればせながら「アラカルテ」最終号をお届けします。――
 


 

 


 

12月新店舗開業に合わせて22号発行A5判、30頁、縦書き。

22号 目次

海文堂書店のオープンにあたって  島田誠

『夕刊流星号』のこと  足立巻一

啄木と神戸を結ぶ一冊の本  植村達男

元町通は縄文の浜辺  前田保夫

私と読書――推理小説、「天皇」そして「君が代」――  中村茂隆

向田邦子さんを悼む――向田さんの著書と私――  川島由起子

は生きかえる  秋元隆司

あの日あの時あの頃に  田部信

ミッテラン政権とフランスの知識人――デネス教授の神大での講演から――  宮ヶ谷徳三

郷土誌の窓  N

海文堂案内板

 新店舗オープンが最大のニュースで、『アラカルテ』についての記述は2行のみ。

――新しい海文堂が誕生しました。それと共に、この『アラカルテ』も新しいスタートをきることになりました。――

執筆者は顧客の方々。植村以外でその立場がわかるのは、中村(神戸大学教育学部教授)、田部(詩人)、宮ヶ谷(神戸大学フランス文学助教授)くらい。川島、秋元は何度か寄稿してくれているが、どういう方か不明。前田は文章から考古学者だと思うが。

 足立巻一19131985)は神戸に縁の深い作家、詩人。ちょうど『夕刊流星号』(新潮社、絶版)を出版したばかり。

「夕刊流星号」とは戦後創刊された夕刊新聞「新大阪新聞」のこと。足立は軍隊で負傷し療養中に敗戦。第一神港商業の国語教師を経て新聞社に。幹部は毎日新聞の出向だったが、皆有能なジャーナリストだった。彼らの合言葉は、日本の『ロンドン・タイムズ』をつくるだった。しかし、幹部たちは毎日に復帰。講和条約が成立すると、新聞の発行が自由になり、朝日も毎日も夕刊を出せるようになった。傍系の夕刊紙は無用、邪魔。

夕刊紙は「転落」「腐敗」していく。

――発行部数は少なくてもいいが、市民に親しまれる高度の新聞をつくり、利益の配分を公平にした小共和国を築きあげたい、と本気に考えていた。しかし、その結果は理想と裏腹な下劣な新聞をつくることになり、完全な敗北に終わって紛糾のうちに辞表を出したのである。――

 当時、大新聞は用紙不足から「学芸欄」がなかった。「流星号」は「学芸欄」を充実させていた。小林秀雄、志賀直哉、谷崎潤一郎、伊藤整、平野謙、福田恆存、坂口安吾……、ビッグネームが並ぶ。この「学芸欄」の諸文章を資料として残しておきたいと結んでいる。

(平野)

 先日紹介の「書肆青泉社」について、閉店の正確な時期が不明だった。執筆者・市井さんに問い合わせたところ、早速調査してくださった。ご自分の記憶だけではなく、幅広い人脈で確認まで取り、元の所在地にも。感謝いたします。
 元は平屋の店舗だったが、「青泉社ビル」=ツインビルを建設、その3階で営業していたが、1996年5月閉店。肥後橋の朝日新聞ビル内に支店があり、そちらは98年6月閉店と判明した。ビルも現在名称が変わっている由。

  市井さんのメールより。
――書肆青泉社は、私にとって、これまでのところ大阪のオールタイム・ベスト書店です。……――
 調査・確認ありがとうございます