2014年2月6日木曜日

月刊 Blue Anchor(6)


 【海】史(14―6

 『月刊 BLUE ANCHOR』(6

10 27ページ
 
 

神戸の鳥  坂根干(もとむ、かんの表記も)

「人間らしさ」について  浅田修一

コロラドスプリングスの詩人  海老原明美

むかしもとまち なんにもせん長  林喜芳

神戸野球物語[]  棚田真輔

ぶっく・えんど

郷土史の窓

海文堂案内板
 
 坂根は野鳥研究家、201296歳で死去。著書に『野鳥ものがたり』(兵庫鳥類研究所、1982年)。少年時代神戸の山を歩き回った。
――摩耶、再度、菊水、高尾、高取、横尾、鉄枴、鉢伏と背面を囲う一連の山々は、神戸アルプスと愛称されて市民に広大な緑地を提供し、早起き会の人々に或は野外に知識を求める子供達に、手頃な距離にある野外教育園としての場を提供していた。……――

 浅田(19382001)は松葉杖の教師で知られた高校国語教師。教育関連の著書他、映画評論も。
「人間らしさ」のテーマは小林の依頼。浅田は3人の女性のことを思い出す。それも彼女たちの失敗した時の表情=「ばつの悪さ、口惜しさ、怒り、憎しみなどがごっちゃになったような」「不注意によるへま」「飲みすぎで介抱されて悲しい顔」。
――三人ともに、このようなことはあ、思い出したくもなく、覚えていてもらいたくもないにちがいない。しかし、私は、これらのことを、そのぶざまさ(原文傍点)の故に覚えているのではない。むしろ私には、この時の彼女達ほどにいとおしく思えた彼女達は、後にも先にもなかったと思う。(略)ただ、「人間らしさ」という言葉を使うのなら、私にとっては、三人の女が、これほど「人間らしく」見えたことはなかったのだ。……――

 林。今回の主人公は、「なんにも船長 いうこと機関長」という名刺を持った「小林茂」。友人からのまた聞き。昭和の初め頃、小林は貫禄のある船長の格好で元町商店街の「鈴蘭灯の下を颯爽と歩いた」。「威采あたりを払う姿は人びとの注意を魅かずには居なかった」。友人は小林と近所で、家には海図、地球儀、羅針盤、船にまつわる置物に囲まれた船長室があり、航海の話を聞かされた。本物の船長だったのだろうか、ただの船マニアだったのか。「遠隔輸送には汽船が巾を利かせた」時代、神戸港のシンボル的存在だったのだろう。

〈海文堂案内板〉

小坂明子サイン会。歌手、ダイエット成功本出版。

ブックフェア。現在(いま)に伝わる大衆芸能の世界

NRの会 当時の加盟社、亜紀書房、風媒社、現代ジャーナリズム出版会、技術と人間、せりか書房、社会評論社、新泉社、創樹社、柘植書房。

 

11 32ページ
 
 

鬼形の清少納言  木山蕃

丹波立杭への道  島崎直代

港と船と錨と  海老原明美

メリケン波止場(上)  角本稔

神戸野球物語[]  棚田真輔

ぶっく・えんど

郷土誌の窓

海文堂案内板

 初登場の島崎は[文学Uの会会員]とあるが、個人名、会とも不明。国鉄福知山線藍本駅下車、丹波日帰りの旅。

 角本の文章は24年後まとまって本になった。後日紹介。

〈ぶっく・えんど〉 

神戸のバーガイドブック『酒場の絵本』(田中正樹、成田一徹、自費出版)紹介。
 

 

 

12号 28ページ

 
 
私の好きな川柳  時実新子

神戸市立博物館へのいざない  三好唯義

不思議な小説「風の歌を聴け」  植村達男

武庫川のほとり  野田豊子

むかしもとまち 画廊と豚まん(原文「まん」傍点)  林喜芳

ぶっく・えんど

郷土誌の窓

海文堂案内板
 
 時実は姫路で「川柳展望」主宰の頃。
 三好、神戸市立博物館学芸員。前年11月開館したばかり。
 植村は村上春樹の新聞コラムを読んでこの小説を手に取った。古本屋で外国の船員たちが処分したペーパーバックスをまとめて買った話が〈あとがきにかえて〉に書かれている。そこで「神戸」の地名が出てくる。
――「風の歌を聴け」は神戸やそれを推理させるような一切の固有名詞を省きながら、登場人物や背景、そしてやや乾いた文体までもが神戸(阪神間)の雰囲気を充分に伝える不思議な魅力をもつ小説である。――
 野田、文学Uの会会員。
「むかしもとまち~」、今回は「画廊」発祥の話。昭和5年(1930)、新進画家たちが鯉川筋のパン屋でお茶を飲んでいる時、筋向いの赤レンガ倉庫に気づく。「かしや」の札。この建物を借りて作品を並べたいと思う。当時作品展は商工会議所か神港倶楽部を会場に借りた。パリのギャラリーのような場所が必要と、画家たちは伝手を頼り、安い家賃でこの倉庫を借り、自分たちで内装をした。やがて協力者が現われ、バーを併設、ギャラリー兼クラブのようなものができた。朝日新聞の支局長がギャラリーをもじって「画廊」と命名した。日本初の画廊は「画廊」という名前だった。
「豚まん」とどうつながるのか? その「画廊」開設の頃、林も多少小遣いが持てるようになり、元町でちょっと高いコーヒーが飲めるようになって、お酒も。それで思い出したのが「喰い気」で「豚饅頭」のこと。
〈ぶっく・えんど〉
翌年引退する「帆船日本丸」誘致運動が全国で行われていて、神戸も百万人署名運動を展開。1930年川崎重工神戸造船所で建造され、いわば「母港」。結局横浜に行った。
 

(平野)
読売新聞神戸版2月1日朝刊、『ほんまに』を紹介していただきました。