2014年2月20日木曜日

玩物喪志


「玩物喪志」

 岩本素白は、「自分の好みに合った、佳いと思ったもの」を大切に思い日常使っていた。疎開中、暇な時は河原で石ころを拾って楽しみ、家々の草葺屋根の形を見て歩いた。雨の日は困った。蔵書は全部焼失。こわれ(・・・)物(茶碗・皿)を撫でたり眺めたり。素白は「玩物喪志」というのには縁がない。むしろ自分は「玩物養志」だと思う。物によって心が慰められている。

――尤も物といっても有り合せの何でも好いのである。何か其処に美しさを見出して愛する心を起こせば良いのである。(略)自分の眼で何かしら美しさを認め、さし当っての利害得喪を離れて心を遊ばせる事が出来れば好い。……――

「玩物喪志」は書経にある言葉だそう。

 澁澤龍彦 『玩物草紙』 朝日新聞社 1979年 絶版(中公文庫は版元在庫あり)

装画・挿絵 加山又造  装釘 栃折久美子
 
 
 

 澁澤は、「物をもてあそんでいるつもりで、じつは観念を、あるいはシンボルをもてあそんでいるにすぎなかった」と書く。

 裸体、虫、沼と飛行船、ミイラ取り、枕、書物、男根、夢、燃えるズボン、衣裳……

「精神も肉体もふくめた私自身というミクロコスモスに関する、一種のコスモグラフィーだと考えてよいかもしれない」

「書物」より

 日本の本にはあまり黴が生えない。フランスの本にはよく生えるそうだ。著述家だから本はふえてゆく。地震が起きて大学者が書物に押しつぶされる物語があるが、自分は学者ではないから「圧死」は空想にすぎないと思いたい。第一、本で「圧死」はカッコ悪くてかなわない。

 肩書きはフランス文学者だが、自分を「学者」と考えたことはない。学問をしているという意識がない。「エッセイスト」ということにしている。ほんとうは「随筆家」を名のりたいが、「世間になかなか通用しないし、そこまで己惚れるつもりもない」。

 石川淳が随筆家の条件を2つあげている。

(1)   本を読む習性があること (2)食うに困らない保証をもっていること

「本のはなしを書かなくても、根柢に書巻をひそめないやうな随筆はあさはかなものと踏みたふしてよい。また貧苦に迫つたやつが書く随筆はどうも料簡がオシャレでない」

 よって澁澤は、「随筆家」を名のりたいとは思ってもその「己惚れ」はない。

――ただ、あくせく原稿を書いて見すぎ世すぎしながらも、本を読んでオシャレをしたいという気持だけが、恥ずかしながら、私に随筆家ならぬエッセイストを僭称させているのである。――

(平野)

「陳舜臣文藝館」5月開設を目指して。「神戸新聞」より。



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