2014年7月17日木曜日

わたしの神戸 わたしの青春


 小坂多喜子 『わたしの神戸 わたしの青春――わたしの逢った作家たち――』 三信図書 19865月刊

 帯の推薦文は佐多稲子、その文章中に尾崎一雄と片岡鉄兵の名が出てくる。
 目次には、小林多喜二、神近市子、武田麟太郎、長谷川時雨、丸岡秀子、壺井栄、丹羽文雄らが並ぶ。
 小坂は1932年に機関誌『プロレタリア文学』に小説『日華製粉工場』を発表しているが、文学史に名は出てこない。本書の略歴では、結婚以来主婦生活、『文芸復興』『あだ花随筆』同人、とある。

 小坂多喜子19091994)は岡山県生まれ。父親の転勤で神戸に。パルモア学院で英語を学びながら旧居留地の海運会社・勝田汽船勤務(社長はのちに神戸市長)。文学少女は社会主義に傾倒していく。

片岡鉄兵は川端康成らの新感覚派から左翼文学にうつり、当時は華やかな作家。小坂はファンレターを書いた。彼は神戸に来て、三宮駅(現在の元町駅)前の喫茶店ボンボン(ゼリー・ボンボンの店だろう)で待ち合わせた。片岡も岡山出身で、小坂の隣村だった。片岡とは何度も会い、小説のモデルにもされている。当時小坂には相思相愛の人がいて、片岡とは恋愛関係にはならなかった。つきあいはとぎれとぎれに続く。1930年小坂は神近市子を頼って上京し、しばしば片岡邸を訪ね、夫人とも親しくなり、困った時に借金をしている。神近に叱られた。

「娼婦のような真似をする。返してきなさい」。(略)だがその金は鉄兵さんに返した記憶がないからいまだ借りっ放しということになる。私は人から金を借りた記憶は全くないが、このときのことだけは覚えている。

 小坂は神近の紹介で「戦旗社」に入り、編集者・上野壮夫と出会い、結婚。「戦旗社」は小林多喜二『蟹工船』の版元で、数年後、小坂は多喜二の無残な姿と対面することになる。
 神近・上野を通じてプロレタリア作家と交流するが、自宅が尾崎一雄の向い(「なめくぢ横丁」、尾崎は後年同名の小説を書いた)で、親しくなる。彼を「先生」と慕った。尾崎家には檀一雄がいたし、太宰治も来た。

 私たちの家には左翼の文化運動をしている私と夫の友だちが多勢出入りし、向いの尾崎・檀両家にはやはりそれぞれの友人たちが集まった。当時の色分けでいうと、私方はプロレタリア派、向いはブルジョワ派の作家やその卵たちである。私はこの「なめくぢ横丁」で先生に小林多喜二虐殺の話をしたことをすっかり忘れていた。それを先生は後年の「なめくぢ横丁」のなかで書かれている。あるときどういうわけか、両家の客人たちが交流し、入乱れて私の家に集まった。……

 音楽が流れ、小坂があちらの新進作家とダンスをし始めると、上野が怒って小坂に手をあげた。一部始終を見ていた評論家の浅見淵(神戸出身)が「人の奥さんと踊ってはいけないよ」と新進作家をさとした。当時左翼は弾圧下、雑誌も壊滅状態。上野は妻がブルジョア作家と踊って頭に来た。この事件の後、小坂・上野はいよいよ都落ち、上野の郷里に引っ込むことになる。このことについて尾崎は「なめくぢ横丁」に書いていない。

……先生は人間の弱みのようなものは書かれない方なのだ、と私は思った。

 父親との確執、非合法運動、実子との別れ、それに当時の神戸の町のことも語られる。

(平野)