2014年7月1日火曜日

小松左京 やぶれかぶれ青春記


 小松左京 『やぶれかぶれ青春記』 旺文社文庫 1975年(昭和502月刊  挿絵 村上豊

 1969年「螢雪時代」連載、自伝風青春小説
 小松(19312011)は大阪市生まれ。生れた年が満州事変、小学校入学時は日中戦争、5年生で太平洋戦争、神戸一中に入ったら学徒動員、2年生サイパン玉砕、勤労動員、3年生で大阪も神戸も焼け野原、敗戦、占領、闇市、食料不足……
 編集者の注文は「明朗な青春小説」だった。

……全身大ヤケドをおったみたいなもので、それから十年以上たって、最近ようやくその上に薄皮がはってきたばかりであり、今でもそこらへんをさわると、とび上がるほど痛くて七転八倒する。やっと、戦争中、十四、五歳のあたりの、ほんの小さなかさぶたを、おずおずはいでみたりしている程度である。(略、明朗な青春物が書けるわけはない)
 しかしながら――これも、諸君はよくご存じのことと思うが――青春とは、途方もなく暗く、陰惨で、息苦しいものであると同時に、一方では、途方もなく無責任で、間がぬけていて、ムチャクチャで、ばかばかしくて、素頓狂で、おかしいものなのである。青春の中で起こった事件は、その一つ一つが、自分自身にとって鋭い痛みをともなうものであるにもかかわらず、客観的に見れば、三派全学連の諸君の叫ぶように、「ナーンセンス!」であり、「マンガ」でもあるのだ。(略)
 まったく、青春そのものの中に、赫々とした「強靭な明るさ」というものがふくまれていなければ、思いかえしただけで、気が変になりそうなあの陰惨な時期を、切りぬけることができたとも思えない。戦時中、あれほど飢え、あれほど疲れ、あれほど教師に殴られ、空襲と、近づく「一億玉砕」の時を前にして、一方でどうしてあんなに、底ぬけに陽気で、ばかないたずらばかりしていられたのか、どうにも説明がつかない。……

 

 昔の神戸の街の様子が描かれている場面はない。勤労動員で農作業、疎開家屋のとりこわし、防空壕ほり、高射砲陣地の砂運び、工場で作業をやらされた。

 農村以外に、私たちがもっとも良く動員されたのは、高射砲陣地づくりだった。神戸には大倉山、苅藻島、そして税関のむこうに高射砲陣地がつくられ、とりわけ税関の高射砲は、当時の日本にはめずらしいラジオケーター(レーダーの前身である)連動式で、高空をとぶB29によくあたった。(略、苅藻島は厳寒の時。税関前は酷暑に空襲。運んだ砂はくずれ、やり直し)
 こんなことをやりながらも、私たちはけっこう陽気だった。教師をはめるために深い落とし穴をいくつも掘り、その中に自分がはまりこんだり、さぼるためにわざとトロッコをひっくりかえしたり、休憩時間には、砂の上でゼスチュアゲームにうち興じたりした。

 活躍したのは後に俳優・歌手になる高島忠夫。解説に、その高島、同級生・國弘正雄。
 田辺聖子も花をそえる。

(平野)