■ 巽慶子 『女お仕打ち一代記 神戸のお家はん巽テル』 沖積舎 2006年11月刊
装釘 伊丹啓子
著者は1924年神戸市花隈生まれ、尼崎で「コクリコ連句及俳句会」主宰。本書は祖母の評伝。
巽テル(1860~1946)は稲野村(現伊丹市)生まれ、「神戸のお家はん」とよばれた興行主。明治の初めに神戸の叔父の紹介で外国人宅の女中になるが退職。京都南座のお茶子修業で一生の仕事と決意。28歳で大阪の劇場にスカウトされ、30歳で芝居茶屋を自ら経営。神戸の劇場を任されて花隈住まい。興行成績がよく、その劇場を譲られて座主=お仕打ちとなった。「大黒座」。
テルは神戸に来てから朝食は大好きな神戸西村屋のパンを配達してもらっていました。火鉢の炭火でこんがりと焼いて、英国製のバター。紅茶はリプトン。そしてジョニーウォーカーをタラタラとたらし、お砂糖はブドウ糖を使用します。毎日、卵二個の黄身に対して、白身は一つ分の目玉焼き。そして必ずリンゴは頂いておりました。(略)
朝食がすみますと、着物を着替えて、大阪の北浜へ向かいます。阪急電車の株主の優待券をもっておりましたので、それを利用して、北浜取引所に朝の取引を見に行くのです。生駒の聖天さんへは、必ずそこから月参りにきっちりとお参りしておりました。……
パン食は神戸女中時代に覚えたもの、北浜(株取引)は大阪時代から、生駒の聖天さんは願掛けした神さん――仕事で生きる、結婚はしない――。芸妓絲子を養女にして女優の道を歩ませた。弟の三男を生後直ぐに養子にした。彼が著者の父。
1908年(明治40)テルの劇場で出演中の俳優・角藤定憲(川上音二郎の先輩、オッペケペ節で風刺を始めた)が肺炎のため亡くなった。テルが葬式を出した。
その当時の役者さんたちが大阪から京都からと参列し、みんな人力俥に乗って、名札を前につけて、神戸駅から大黒座までずらりと寸分の余地なく並んだそうです。北のほうは楠公神社の前まで並んで、神戸の名物となるほど賑やかなお葬式であったということが語られております。人力俥に乗った巽絲子も、とても美しく綺麗だったと、花隈の人たちはそれを自慢にして、その話は神戸が戦火に焼けるときまで語り続けられておりました。
大正に入ると、新開地にもモダン建築が建ち、「芝居小屋」は「劇場」と言い換えられる。「大黒座」も「日本劇場」に。
関西では初代の中村鴈治郎さんの全盛期でした。芸熱心で、素通りの人の足音ですら注文が来る。「そういう歩き方は女中の歩き方ではない」「丁稚の歩き方はこう」とか、歩き方一つでも注文があって、みなそれを一生懸命に勉強していったんです。
二代目の実川延若さんは、まだ延二郎さんの時代で、鴈治郎さんよりお年が十歳から若かったもんですから、まだ若手のほうでした。……
中村梅玉、雀右衛門、魁車、片岡仁左衛門と当時の人気役者の名が続々。名優だけではなく、花柳界、文化人、経済人との広い交流と花隈の町の様子が語られる。興行を仕切る“顔役”との交渉も。
人気役者の写真多数。
(平野)
「くとうてん」にあったのを借りています。本書、まだまだネタが出てきそうです。