◇ 【海】史(20)
■ 埋蔵画家 石井一男(1)
島田は毎月「ギャラリー・インフォメーション」という通信を書いている。展覧会の案内と島田の芸術、旅や本についてエッセイ。現在もギャラリー島田で継続している。
1992年6月24日、時々【海】ギャラリーに来て、この通信も読んでいるという男性から電話がかかってきた。
「こんな文章を書く方なら、私のことをわかってくれるかと思いまして……」
絵を見てほしいという依頼。
この男性は島田の文章のところどころに赤線を引いていた。5月に書いた「信濃デッサン館への旅」と「五〇歳にして心朽ちたり」。
《(デッサン館の窪島が絵を見て涙ぐむことがあるという話)眠れぬ夜、お気に入りの絵を見てふと手を合わせたくなるぼくと、資質的に似たものを感じる。》
《……自分以外の人で勤まることは引き受けない。自分しか出来ないことをやりたい……》
《(本屋と画廊)どちらも文化に拘わる仕事で心から誇りに思っています。(略)大袈裟にいえば作家の生死に拘わること、言い換えれば精魂を込めた作品の生死に拘わることを毎日やっているわけで……》
《(大病をして)自分は自分以外のものに生かされている……自分には与えられた時間が少ない……》
時どき、胸の病気を想像させるような咳をまじえながら、彼は延々としゃべり続けた。
「石井一男。四十九歳。独身。年老いた母親しか身寄りがなくて、内気な性格で、友人もいない。夕刊を駅へとどけるアルバイトを続けながらひたすら絵を画いている。でも体調も悪いし、あまり先がない予感もする。絵を見ていただくだけでよいから」
あまりに暗い話しぶりに、途中で電話を切るわけにもゆかず途方に暮れてしまう。すがりつく声に「ともかく、一度資料か絵を持って訪ねてきてください」と電話を切る。やりとりに耳を傾けていたスタッフが「変な電話ですね」と肩をすくめてみせる。
「作品をみてほしい」という話はよくあるだろう。島田は、“ど素人さん”と思い、元気づけてあげるくらいしかできないと思ったが、すぐにその話は忘れてしまっていた。
翌25日、石井が絵を持ってやって来た。
……キャリーに絵を一杯くくり付けた、顔色の悪い男が現れて「石井です」と名を告げた。緊張して堅くなり、よけいに変に咳きこむ彼をうながして、ケース一杯に詰められた百点近いグワッシュ(水彩絵具の一種)を、時間がかかるなと、溜め息をつきながら手に取る。二枚、三枚と繰ってゆくうちに、今度はこちらが息を呑む番だった。これは素人の手遊びとはとても言えない。どれも三号くらいの婦人の顔を描いた小品だけど、孤独な魂が白い紙を丹念に塗り込んでいった息遣いまで聞こえてきそうだ。どの作品も巧拙を超越したところでの純なもの、聖なるものに到達している。思わず「なかなかいいですね」とつぶやいてしまう。本当は「すごいですね」と言ってあげたかったのだけど、何しろ世間から隔絶されて生きているようにしか見えない石井さんに、急激なショックを与えてはいけない。 (『無愛想な蝙蝠』)
島田は、石井がこれまでどこにも発表せず、無名で、高い水準の作品を描き続けていたことが信じられなかった。【海】ギャラリーで展覧会をすることは決めたが、そのことも石井には告げなかった。
「作品を拝見に伺う」と伝えて、別れた。
【写真】「ふたり F6」昨年11月30日から12月11日までギャラリー島田で開催された「石井一男展」の案内はがき。
(平野)