2014年3月3日月曜日

東北を聴く


 佐々木幹郎 『東北を聴く――民謡の原点を訪ねて』 岩波新書 740円+税

 1947年奈良県生まれ、詩人。『中原中也全集』(角川書店)責任編集委員。詩・評論で受賞多数。

 20119月から、津軽三味線二代目高橋竹山と一緒に東北の被災地をまわる。仮設住宅の集会所や地区の公民館。竹山は演奏と民謡、佐々木は詩朗読。

わたしたちはライブが終わったあと、会場に残っていただいたさまざまな方々から、被災当日の話や、その後の話を聴いた。想像を絶する体験を、誰もが持っていた。修羅場をくぐり抜けてきた語りのことばの強さ。聴く人がいるときに始まる物語。それを聴き届け、その声を編むことによって、新しい津軽三味線の「口説き節」(語り物)を作りたい。それがわたしたちの願いであり、民謡と語りをめぐる、東北への旅の始まりだった。/民謡。それは一人の制作者が作ったものではない。土地の文化に根ざし、同時にその土地に、陸路や海路で流れ込んできた他の土地の文化を残している。

 津軽三味線は民謡の伴奏楽器という地位だった。初代高橋竹山(19101998が独奏曲をいくつも作り、「新しい三味線音楽を開拓」した。

 二代目は東京出身の女性。1972年、17歳のとき初代に弟子入りを志願、何度も断られたが諦めなかった。父親と青森まで頼みに行って、唄=民謡をうたえるので内弟子にしてもらえた。
 津軽三味線の世界では、三味線の演奏技術よりも、唄がうたえるかどうか、のほうが大事だった。

 初代は盲目だが、かすかに光が見え、それを頼りに三陸から北海道まで一人で門付け芸をして歩いた。「ボサマ」(盲目の三味線弾き)と呼ばれた「ボイド」(乞食)稼業。

「門付け芸」をやったから、三味線の腕がうまくなったとかいうことはない。恵んでもらった食べ物を食べながら、「門かける」のだから、三味線の勉強をする時間などない。門付け芸をしたからうまくなった、というのは真っ赤な嘘だ、と初代はつねづね言っていたらしい。……

 それでも佐々木は二代目を東北門付け芸に誘った。初代が歩いた跡を辿った。
 土地土地のに出会う。民謡は、海を誉め称え、大漁を祝う。労働を歌う。
にも出会う。ある人の告白は衝撃。「3・11」の津波第一波の後、潰れた家の下から人の手が見えた。別の家から民謡が聴こえた。老人が助けを求めていたのだろう。
「困ったな……神様わたしを許してください……今日だけわたしは悪い人になってます。すみません……許してください……

 初代は昭和8年(1933)の三陸沖地震に岩手県野田村で遭遇している。今回の旅でそのとき初代の避難を手助けした人が、体験を録音テープに残して聴くことができた。血縁の人にも会えた。地震から50年ほどして初代はお礼に訪れたそうだ。

「お礼に民謡をうたわせていただきます」。二代目竹山はそう言って、野田村から出発した牛たちが塩を運んでいたときの民謡「牛方節」と、初代竹山の故郷の民謡「津軽山唄」を続けてうたった。/門付け芸とは、こういうものではないか。二代目竹山の朗々とした声を聴きながら、わたしのなかで、何かが腑に落ちるように溶けていった。

 佐々木が初代の音楽に出会ったのは1973年。渋谷のライブハウスで初代は定期演奏会を開催、若者たちに津軽三味線ブームが起こっていた。

 その若者の一人に、二十代のわたしがいた。当時、ピンク・フロイドを好きだったわたしが、何の違和感もなく、民俗音楽としてではなく、民謡でもなく、現代の音楽として、竹山の津軽三味線を聴いていた。レコードを買い、部屋中を真っ暗にして聴く津軽三味線の音色は、わたしの身体に、まだ見ぬ津軽の冬の海の波飛沫を浴びせかけてきた。気持ちが沈むたびに、私は同じレコードを何回も聴いたのだった。


目次
鎮魂歌
津軽三味線のほうへ
瓦礫の下の「八戸小唄」
初代高橋竹山の秘法
西も東も金の山  牛方節の故郷
初代竹山受難の地を歩く
「遥か彼方」をどこから見たのか  新相馬節
昭和初年代の音頭ブームに乗って  会津磐梯山
湾の内と外  斎太郎節
津軽三味線の彼方へ
……
 

 三陸沖地震のあった昭和8年、西條八十作詞、中山晋平作曲「東京音頭」が大ヒットして、全国の音頭がレコード化された。西條や北原白秋ら詩人が作詞・補作し、地方の民謡が広く知られるようになる。しかし、本来民謡は節、歌詞、囃子ことばなど、時代・地域・歌手によって違う。「正調」とか「元歌」とかことわりをするようになる。
(平野)