◇ 【海】史(20)
■ 埋蔵画家 石井一男(3)
石井は1943年神戸新開地生まれ。高校卒業後、公務員などを経て、関西大学夜間部をアルバイトしながら卒業。ずっとアルバイトで生活。正社員の職に就いたことがない。しゃべることが苦手で同僚と親しい間柄になることがなかった。母親の家なので家賃不要、酒・煙草・賭け事無縁、コーヒーも飲まない、食べ物や服に凝らない、十分食べていけた。お金を使うのは映画館、美術館、古寺めぐりくらい。
絵は20代後半に公募展に応募して入選したことはある。
ふっと絵筆を取ったり、画紙へ向かう気持に誘われるときはあったが長続きしない。……ひとつの強固な気持へと固まるにはさらに長い年月を要した。
40代半ばから駅に新聞を運ぶ仕事をした。ホームや電車内で赤ん坊に見入いってしまう時があった。ある日、体調が悪く、うつうつとしていた。頭がもうろうとして息苦しくなり、死を間近に感じた。お母さんと赤ちゃんの姿を見て涙ぐんでいた。帰途、「目の前に閃光が走った」と言う。
長い空白を経て、深海でじっと真珠を抱き続けてきたアコヤ貝が海面へゆっくり浮上してきたというべきか、男はようやく絵筆へと向かったのである。自身にあるもの、そして、できることはこれ以外にない――。/画家になりたいと思ったのではない。発表したいとおもったのでもない。ただ絵を描きたいと思った。生きる証としての絵であった。素直に、無心に、自分の内にあるものを見つめてそれを描けばいい。へたも絵のうちだ……。島田と出会う三年前であるから四十六歳である。
なぜ「女神」だったのか?
石井がここに至る歳月の間に蓄積してきたもの、その総体が長い時間に現れてにじみでてきたものという他にない。
初個展は92年10月。島田がパンフレットに書いた。
《現世から隔絶された稀有の孤独の中から生まれたモノローグ。完璧なまでの無名性のうちに埋蔵された才能が宝庫のような鉱脈となって、今、開花。生きる証しとしての存在証明が「石井一男の女神たち」なのです》
新聞各紙が紹介記事を書いてくれ、ギャラリーは島田の記憶にないほどの熱気だった。食い入るように見つめる人、涙を浮かべている人、何度も足を運んで来る人……。無名画家の個展としては異例の完売状態。最終日、島田が石井に売上金を渡す。
「おカネは結構です……亀井純子文化基金というのがありましたよね。寄付させてもらえませんか」
基金が発足してまもなくのことで、石井も【海】でパンフレットを見ていた。
個展に人々がやって来て絵を見てくれるだけでありがたいことだった。心の中で、見知らぬ一人ひとりの背に向かってアタマを下げていた。長く忘れていた、あるいは生まれてはじめてであったかもしれない、〈生きている〉という実感さえ覚えていた。もうこれ以上、望むことはなにもない。多額のカネをもらっても、ほしいものはなく、使うアテもない。この先、長生きすることもないであろう。自分には不要のものだ――。
石井の申し出に島田は驚きつつ、こういって断った。
「石井さん、誠にありがたいお話ですが、この基金はあなたのような人の援助のために存在している基金でありまして……」 (後藤『奇蹟の画家』)
島田の困った顔が目に浮かぶ。
このお金は島田が貯金通帳に入れて渡した。阪神・淡路大震災で壊れた家の改修に使われたそう。
2008年に画集を出版。09年には後藤の本も出た。TVでも紹介された。個展は毎回盛況。
石井は改めて「亀井純子文化基金」と「神戸文化支援基金」に寄付をしている。
(平野)
【写真】『絵の家 石井一男画集』 ギャラリー島田発行 3000円+税