■ 稲垣足穂 『美少女論――宝石を見詰める女』 潮出版社 1986年刊
装画 まりの・るうにい 装幀 戸田ツトム
解説 加藤郁乎
足穂の“女性論集”。
星の落し子のように、コーべの街を夜な夜なうろつき廻った友らも、或いは死に、或いはなおかつ生きながらえて、しかも、コーべの街は、タイム・トラヴェルの、すみれ色の夜色に反射して、電子ケンビ鏡下に、アブストラクトや、シュールの五彩のユメを、今なおきらめかせている。少なくとも、ぼくや、そして、おそらくは、君にとっても。真夜中のトアロードの坂の灯や、童話のシャトーに似た三色のトア・ホテル、元町の夜の路次に立つスペードの青い女、コーべの空に廻るサターン(土星)の白い輪。(これは、白でなければ困るのである)…… 「旧友の手紙」(1974年6月3日)
以下、足穂文学愛好女性たちのことと彼女たちからの手紙のこと。
キネマの月に巷に昇る春なれば……こんな上の句だけが出来て、つづきをどうすればよかろうと佐藤春夫先生に問うてみたら、答えは次のようにあった――
「ぼくは歌はダメだが、――キネマの月巷に昇る春なればこそ、貴女とぴかぴかした自動車に乗ってアスファルトの上を走りましょう……とするんだね」
遣られました! かつて神戸の山ノ手で、四月の夕べ、団々たる月のぼる刻限にすれちがった一外国少女に覚えた感情を、私の師匠はそっくりそのまま表現したからだ。 「美少女論」(『新潮』1948年12月号)
佐藤春夫に入門した頃の思い出から始まる。
「われら切に求めるところは愛人に非ず、また母ならず、ひとえに心の色は赤十字! 看護婦である」
「愛の世紀の先駆なる日本美少女らのために、お祈りをささぐる――」……
発表したのは12月号だが、書いたのは同年の桃の節句。
確かに、足穂は夫人をはじめ良き女性たちにめぐり逢ってきた。
(平野)