■ 『無愛想な蝙蝠』(2)
恩人を悼む文章がある。
「ある小児歯科医の死」
1990年2月自死した佐本進氏のこと。
佐本は歯科医。障害児教育、芸術家支援、オリエント学会創設など多くの事業を行っていた。島田とは文化支援、「元町の文化と伝統を守る会」などで親交があった。
「佐本進先生の死」は、たんに個人の感傷のレベルの事件でなく、神戸における文化的大事件であると思う。佐本先生が蒔いた文化の種は美術、音楽、演劇、文学、学術など多岐にわたる。その種を育てるのは先生に負うところの多いぼくたちの努めだ。
深い悲しみを綴る。
「ぼくは先生に大きな借りがある」
……ぼくが祭壇の遺影を見つめていると、先生の声が聞こえた。いつもの優しい声だけど、
「お前がもっとしっかりせんと、いかん」と。
佐本の業績は「市民メセナの手本」であると、自らの文化支援に繋げてゆく覚悟を語る。
凬月堂社長・下村光治氏のこと。
90年夏、“借り”のある人が亡くなる。島田と共に場外馬券場反対運動の先頭に立った下村。本社に多目的ホールを作るなど、企業の文化活動も大切にした。
ぼくの本当の狙いは「反対」するという消極的なエネルギーを「まちづくり」への建設的エネルギーへ転化するということだった。
84年9月、旧来の組織では新しい発想は生まれないと、若手経営者で「元町まちづくり委員会」を発足させた。島田は下村に委員長就任を要請。
下村はポートアイランドに本社移転計画があったが撤回し、元町に腰をすえる決意。一言だけ、
「人を二階に上げて梯子を外すようなことはしないでほしい」
島田が事務局長を務めた。
しかし、反対運動は敗北した。委員会は休会。
結果としてやはり梯子は外された。ぼくは責任をとって、すべての役職を任期半ばにして辞任した。下村氏が就任に当たって述べた一言は、ぼくにとっては古いかもしれないけど「男の約束」だった。しかも実質的に批判を受けるべきは、ぼくであることも承知していた。
思えば、人は皆、人から与えられ、また人に与える連環の中にあるのだろう。ぼくが借りを返すのはお二人に対してではなくて、ぼくがお二人の力を必要としたように、ぼくの力を必要とする人たちの力になることが即ちお二人への借りを返すことになるだろう。
(平野)
昭和40年代前半(もう少し前かも)と思われる