2014年3月22日土曜日

【海】史 1995.1.17(5)


 【海】史(22

 阪神・淡路大震災 1995.1.17(5

島田の記録。

123日(火) 死者4984人、不明者159人。
商店街、電気復旧工事。

 今日、ほとんどの従業員が揃う。暗闇の作業続きで疲労の色も濃い。しかし、当初はあまりの災厄に全員呆然としていたが「再開」の指示をだし、協同作業をすることによって皆がどんどん生き生きしてきた。

 商店街役員会。(1)危険防止対策徹底 (2)できるだけ早い営業再開 (3)仕事を通して被災者に役立つことに取り組むこと、を決める。ファストフードチェーン支店と銀行管理の店舗が商品と備品だけ引き上げて、瓦礫を放置したまま。各社に強く抗議。

 単なる営業拠点としての店舗は、逃げ足も速い。全国の衰退する商店街でよく見る構図である。震災のような非常時にその本質がよく分かった。

 午後5時作業終了。7時半、通電。

 新装店舗のように光輝いてみえる我が店を見て、年甲斐もなく小躍りして小さく万歳を叫んだ。

124日(水) 店内整理。重く頑丈な書棚が定位置からずれている。
水道復旧、トイレも使用可能に。(【海】は「市民トイレ」として開放している)

125日(木) 未明、ゴミ集積場放火事件。ゴミと三越の社用車が焼ける。
ウィンドウに被災者のための生活情報、交通情報などを貼り出す。
午前11時オープン、午後5時閉店。

 元町商店街がもっとも安全な通勤通路のようになっていて、驚くほどの人の波。久しぶりのお客様の笑顔。再会を喜び、お互いを気遣い、泣いたり笑ったり。(略)
 交通機関が途絶し、救急車のサイレンが鳴り止まぬこの街で、「本など売れるはずがない」、しかし生き残った店の責務として、一人でもニーズがあれば店を開けようと努力したが、実際に営業を再開すると「明るい気持ちになれた」「ここにだけ地震の前の懐かしい日常がある」など感謝の気持ちばかり聞き、かえって私たちが励まされた。
 地域に生きる商店は、勿論ニーズがあるから存在しているわけで、こんな時にこそまさに、その役割を普段以上に果たさなければならない。

126日(金) 「頑張ろう神戸、私たちの街だから」と墨書してウィンドウに貼る。ラジオ関西が大破した社屋で放送を続けていたが、いよいよ危険になり仮スタジオに移るに際し、俳優・堀内正美がガラスにこの言葉を書いた。島田は素直に感動したのだった。

 この言葉が自然発生的に合言葉のようになり、さっそく元町商店街でも横断幕になり、いろいろなところで使われた。しかし、私は「私たちの街だから」をとって「頑張ろう神戸」だけが一人歩きしているのを苦々しく感じている。

 


イラスト 佐野玉緒 (『蝙蝠、赤信号をわたる』章扉イラスト)

(平野)
遠方から通勤の従業員たちは近くの避難所“まちづくり会館”に寝泊りした。
私は当時「三宮ブックス」在籍。震災のことは「みずのわ出版HP」の「本屋漂流記」(第24回から28回)をご覧ください。