2014年3月31日月曜日

【海】史 大震災後(2)

 【海】史(24
 阪神・淡路大震災後(2

 仲間のなかには商売を休む人もいる。仮設住宅の抽選にはずれた人も。家庭、仕事、財産をなくし、借金がふえ……。被災者も明暗さまざま。立ち上がれた人、まだの人、孤独死、自殺、アルコール依存など。

 7月から島田は兵庫県の被災者復興支援会議の委員にもなった。仮設を回り、被災者の声を直接聞いたとき、役人と間違われて怒鳴られたり詰問されたり苦情を言われる。

 私など素人に何ができるのかと自問しながらの日々だ。しかし、素人であることを恐れずに率直に被災者と行政の間に立ちたいと思う。

 95年の夏は暑かった。仮設の室内温度は40度を超え、テント村では50度超。大災害での個人損害を、国家として補償できないと言いながら、企業や商店街・団体には手厚い施策が用意されている。法制度がないと言うなら、それに対応するのが政治の役目だと、島田は考える。

 島田は本屋の店頭にいて、「市民が語り出した」という実感がある。子どもの夏休み用のコーナー、「戦後50年を考える」フェア、それに「地震の本」コーナーが賑わっている。

 まだ、続々と震災関係の本が出版されている。きっちりと記録し、風化させずに自らを問い直したいという欲求が、本を作らせ、読ませている。
 かつて、この地から、これだけの本が出版されたことはない。
 子どもが、主婦が、消防士が、先生が、医者が、警察官が、商店主が、じつにさまざまな人が自らの体験を活字にし、本として出版した。
……この現象が単に被災地内部だけのものでなく、市民社会の実現へとつながっていくことを祈っている。

(平野)

名古屋のGF・K子ちゃんのフェア写真。プーおじさんの本まで並べてくれるという、賢いのか、お調子者なのか、美・優・勇(?)・力兼備書店員。ありがとう。
S文館本店様、ありがとうございます。
 

 

2014年3月30日日曜日

【海】史 大震災後(1)


 【海】史(24

 阪神・淡路大震災後(1)

 続いて島田の記録から。

 冬が去り、春が来て、桜が咲いた。
 この季節は書店にとっては教科書の季節である。各学校もそれぞれ地震による事情を抱え、生徒さんにも素直に新学期を喜べない悲喜こもごもがある。我が社の従業員も家庭にそれぞれ問題を抱え、不便な通勤に耐え、普段より忙しい業務に耐えている。

 皆が「本好きな感性豊かな読者に支持される専門店色の強い総合書店を目指し、仕事に誇りをもっていることがうれしい」と書く。

 私たちはかつてない体験をし、そのなかで等しく劇的に体験した人が人に対して優しくあることの素晴らしさへの共感を、これからの街づくりへの礎石としたいと考えている。

復興の掛け声とともに都心部では解体工事が進んでいく。空き地になった場所に何があったのか思い出せない。既に風化が始まろうとしていることを恐ろしく思う。

 毎日が高揚したような、微熱が続いているような、寝ている時も(うつつ)のままのような、まことに異常な時が過ぎて行く。

復興の名のもと、行政とゼネコン主導の都市開発に抗議する。神戸市の文化指針検討委員会で役人とぶつかる。6月発売になった『神戸発 阪神大震災以後』(酒井道雄編、岩波新書)のなかで「神戸に文化を」を執筆担当。市の文化担当者との震災以前から計画のあった“六甲シンフォニーホール”(六甲山を削って地下型の音楽ホールを作る)についての激しいやりとりを紹介している。委員会で反対されながら、計画はずっと生き残ってきた(のち財政難で計画中止、莫大な損失を出した)。
 被災地外の人には大震災はもう過去のこと。メディアの関心も「オウム・サリン事件」に移っていた。かつて島田はテレビ局に懇願されて、寒い夜遅くに戸外の取材に付き合った。レポーターは「二ヵ月後にフォローの取材をする」と帰って行ったが、二度と来なかった。
「アート・エイド」の運動を批判される。多忙とストレスで体調を崩した。

「たかだか本屋のおやじのぶんざいで、なにを大層なことを言っとるの、そんな暇があったら本の一冊でも売りなはれ」という叱責の声が聞こえてきそうである。
 その通りやなと私も思う。「本業はだいじょうぶか」と先輩からなんども言われた。大丈夫やおまへん。これも真剣です。今、震災の大きな試練のなか、ようやく私たちが今まで言いつづけてきた本当の市民社会の実現、とりわけ私にとっての「市民が主体的に文化に関わる」という主張が行政に届く可能性が生まれたのだ。空想といわれようと、ロマンティストといわれようと、今、この可能性に賭けてみたいと思う。

 7月、子どもたちの夏休みが始まるとすぐ、元町商店街では1日だけの夜市が開かれる。長い商店街の東から西まで露店が並ぶ。長年続いている賑やかなイベントだが、食品衛生などの問題もあり、今は業者が運営している。この頃はまだ商店主と従業員が手づくりで参加していた。【海】は例年「焼きとうもろこし」。

 昔は私と家内の二人でやっていて、友人が助っ人してくれたりしていたが、今はすっかり従業員のお祭りになり、有志が大汗をかいて、とうもろこしを焼き、大声をはりあげて売っている。こだわりのタレとか、焼き具合とか、うるさいものだ(本を売るときもこんなに熱心だったらいいのに)。

 大震災から半年。今年は無事開催できるか心配だったが、大勢の人が集まった。

 おじいちゃん、おばあちゃんの笑顔。子供たちの顔。地域の三世代の交流が、輪になり人々を呼び寄せる。
(平野)『神戸発 阪神大震災以後』については後日。

◇ ヨソサマのイベント 
■ 第九回サンボーホールひょうご大古本市 
4月4日(金)~6日(日) 10:00~19:00(最終日18:00まで) 
会場:三宮サンボーホール
主催 兵庫県古書籍商業組合 078-341-1569
 

 

 

2014年3月29日土曜日

びっくりしたお父さん


 稲垣足穂 『びっくりしたお父さん』 人間と歴史社 1991年刊

解説 高橋康雄  造本・装幀 戸田ツトム+岡孝治

装画 まりの・るうにい
 
 

『新青年』発表作品を中心にした怪奇ファンタジー集。

童話の天文学者  壜詰対談  父の不思議  蘇迷盧  出発  びっくりしたお父さん  リビアの月夜  電気の敵  ココァ山奇談  真面目な相談 ……

 『びっくりしたお父さん――或いは「僕もそう思います」』は『新青年』1931年(昭和63月号に発表。

 私はおとなしい紳士と山道を登っていた。途中ちょっと休む。紳士が話し出す。

「ねえ、あすこに灰色の館が見えるでしょう。」

 紳士は前に友人に連れられて来たことがある。フカという人の父親(鱶汽船会社社長)の別荘。夏の夜のこと、そこで船火事があった。
 山の上で船が火事?

「こう言うとあなたは驚きになるかも知れませんが、僕が言うのは、あの場所から海を見下ろしたのではなく、海があそこまで引き込まれてあって、その引き込まれた海に浮かんでいたヨットなのです。……
 とんでもない! と私は云い出すところであった。下の方に青い帯になって見える海が、この高いところまで引っぱりあげられるはずがあるものか。

 フカの妹の葬式。楽団の演奏、花だらけの舞台に柩。フカが黒い服に眼のまわりを白くぬって、人形の頭をなでながら音楽に合わせて妹のためにコトバを発する。紳士は、はじめは笑いそうになるが、しだいに眼が熱くなってくる。しかし、こぼれそうになった涙がこぼれなかったのは、フカがなでているのは人形ではないとわかったから。妹の死骸。

 僕は一番近くであったからハッキリと見ました。フカの手になであげられて髪にかくされていたその顔がみえましたが、それは紅や緑でいろどられてあったもののもう半ばは骸骨になっているのでした。

 やがて舞踏会になるが、妹の骸はそのまま。

 どういうわけか紳士のお父さんが現われる。お父さんが桟橋で船が燃えているのを発見する。火は館に燃え移り、黒煙がうずまく。紅い衣の骸骨とお父さんと鉢合わせしそうになる。

 とたんにお父さんはジャンピングの選手のように骸骨の上をとび越えて、よろよろとこちらへよろけてくるなり、僕の両腕をつかまえてへたばってしまったのです。

 私が感想を述べる。

『お話は大そう面白くうかがいました。』
 危うく風に吹き落とされそうになった帽子をおさえて私は云った。『しかしあの館は火葬場ではなかったでしょうか。どうもむかしからそうであったように思いますが。』
『むかしからそうであると僕も思います。』
 と、その花を胸にさした紳士は、そこからわき出して、あたまの上の方までひろがりつつある黒いけむりを見ながら答えた。

(平野)

2014年3月28日金曜日

生活に夢を持っていない人々のための


 稲垣足穂 『生活に夢を持っていない人々のための童話』 
第三文明社 1988年刊

解説 高橋康雄  造本・装幀 大塚惠子  カバー・扉写真 戸田智雄
 
 

 天文学集。

私の耽美主義  童話の天文学者  フェヒナーの地球意識  朝日山の山桃の木に思う  須弥山さわぎ  私はいつも宇宙の各点へ電話をかけている  密教的なもの  男性における道徳  生活に夢を持っていない人々のための童話  物質の将来  糸屑巻きタルホノオト ……

 表題作は1973年「海」に発表。

 友人・山内は哲学、数学、物理学に詳しい。足穂は彼と東京天文台の辻技官を訪ねる。機械や観測の話のあと、辻が足穂に国際天文協会の特種パンフレットに書かれてあったインドの幻術家について質問する。幻術家は、地球の代わりに「須弥世界」=不思議な神の世界の実在を唱えた。パンフには、現代の物理学者がその「須弥世界」の可能性を論じ、さらにそれを建設した、とある。

 これはあなたには多少参考になることだろうから、記されていたままにお話するがと、彼は前置きしました。

(お伽の須弥山では、五色の雲に乗った菩薩たち、修羅族、人面鳥身など天体のお化けが出没。目鼻のついた月、笑い転げる太陽、思索に耽る土星、威張っている木星がある。深海魚のようなホウキ星が住民に捕獲され、星々は灯火の代用になり食用になり幻覚剤になり……

 申す迄もなくこんな次第は、私が『一千一秒物語』を手はじめに次々発表してきた天体物の世界に甚だ似通っています。同様なことが当の辻氏にも思い当られた結果が、上記の質問となったのでしょう。彼は、天文学関係の新着文書中に見付けたその異質の小冊子を(ひら)時、私が書いてきている文芸作品も、てっきりこのヒント得たのだと考え、天文学の専門家自分今日やっと知らされたニュースを、どうして私が夙くから知っていのだろう、そんな不審起こしたかのようでした。…… 
 

(平野)

 特報 海文堂書店100周年企画


 海文堂生誕まつり「99+1」 


記念展 5月31日(土)~6月11日(水)

ギャラリー島田 1階deux

海文堂ギャラリー&ギャラリー島田ゆかりの芸術家作品展(展示と販売)。

海文堂書店の歩みを写真と資料で紹介。

海文堂書店関連の出版物販売。

○100周年記念ポストカード作成・販売。

土日限定「古本市」。

【海】は昨年9月に閉店いたしましたが、本年6月1日が創業100年に当たります。

無くなってしまったものをあれこれ言わしてもらいます。ジタバタドタバタいたします。負け犬の遠吠えはしつこいどえす。

春です。GFたちからもメールがきはじめました。花咲く乙女たちよ!

 
 
 
 
 

 













































2014年3月27日木曜日

小林一茶


 金子兜太 『小林一茶 句による評伝』 岩波現代文庫 860円+税

 一茶が生涯に詠んだ2万句から約90句を選び、年代順に訳と評釈。たとえば、

痩せ蛙まけるな一茶是ニ有

(訳)お前の味方はこの一茶だぞ。さあ、負けるな痩蛙。

(評釈は対話式)

――この句は真面目すぎる受けとられかたをしていますね。「蛙のたたかひ」を見にいって作ったもので〈略、「蛙のたたかひ」は二説。(1)蛙合戦=自然の生殖、メス1匹にオス多数。オス同士の戦いで痩せた蛙は分が悪い。(21匹のメスに数匹のオスを向かわせる遊び、金を賭ける。この句は(1)がふさわしい〉高調子で、戯れて呼びかけるには、蛙合戦のほうがいいですよ。

――従来は、痩蛙への思いやりを過度に受けとって、一茶の不遇な成長期を直接類推したり、その成長期に育った一茶の弱者憐憫の意識のあらわれをみたり、(略)しかし、それは読みすぎだね。

――小動物に呼びかけている感性のやさしい働きを受けとるべきで、その根底を探りすぎると句がつまらなくなりますね。それも、やさしさ(・・・・)ゆえに醸されている諧謔の味わいですね。

「あとがき」より。

 金子は、一茶のことを「芭蕉の組上げた俳諧、とくに発句の大衆版を書きひろげた俳諧師」という受け取り方をしていた。晩年の「自由きままな生活のさまざま」――武家をからかい、嫌なものは嫌といい、放屁の句、子どもに親しまれる――年寄りぶりを親しいものに思った。
 本書を書くにあたって、「一茶という俳諧師の、人間として生きてゆくための苦労の有り態」――29歳で業俳として独り立ちして、50歳で郷里に帰るまでの旅回り俳諧指導の「屈折した内面、対人関係」、帰郷後の苦労、60歳の正月に「『荒凡夫』で生きたいと言い切る心底」――に深く入っていった。

 小生は、「定住と漂泊」を身にしみて承知した。……

「句による評伝」。

 元は、1973年(昭和48)河出書房新社『日本の古典』シリーズの『蕪村・良寛・一茶』に収められた文章。87年小沢書店から単行本。
(平野)

2014年3月26日水曜日

【海】史 アート・エイド・神戸(4)


 【海】史(23

 アート・エイド・神戸(4

基金の状況

 確たる資金計画はなかった。「亀井基金」の支援、チャリティ(美術展・音楽会)の売り上げ、詩集出版売り上げでの収入を、芸術関係者緊急支援、文化活動助成に使った。

 私たちの活動は芸術家の自立を基本としており、その資金を企業や、行政や、被災地外から集めようとした訳ではない。資金獲得活動もほとんどしてこなかった。それは私たちの活動の結果として獲得した資金と、私たちの活動を認めて寄せていただいた基金からなる。
 すなわち、文化活動でえた資金を、再び文化活動へと循環させていくソフトバンクとしての役割をアート・エイド・神戸が果たしたということだ。

951118日現在の活動報告を見る(写真、25.7×48cmを四つ折)。
 収入合計14,775,533円 チャリティと詩集、個人・団体からの寄付。
 支出合計10,650,759円 芸術家支援、コンサートなど後援・助成、諸経費。
 伊勢田委員長の挨拶より。
 多くの市民が疲労の色を濃くしながらも復興に向かっているなか、アート・エイドの運動は広がりつつある。

このアート・エイド・神戸の運動は、当初、神戸の芸術文化復興のための起爆剤であればよい、との考えから出発しました。ですから、それは半年とか1年くらいの短期間で終了してもいいのではないか、との暗黙の合意が私たち委員の間にあったのです。しかし、どうやら1年そこそこで、この運動にピリオドを打つわけにはいかない情勢です。美術や音楽、演劇や文学を通して、神戸に活力をもたらし、外見だけではない、より魅力的で美しい神戸の再生に尽力する、という初心の思いをかみしめ、重層する諸問題に足をとられて、へとへとに疲れている市民とともに、歩みを、一歩また一歩、進めてゆかねばならぬのではないかと思います。……

 
 
 
 
 
 後に、(株)フェリシモから支援がある。
「アート・エイド・神戸」については一旦終了。

(平野)

2014年3月25日火曜日

【海】史 アート・エイド・神戸(3)


 【海】史(23

 アート・エイド・神戸(3

アート・エイド・神戸文学部門 鎮魂と再生のために

 文学部門では、詩人たちが震災体験を発表することになった。伊勢田委員長を中心に、和田英子他6名が呼びかけ人になり、312日から活動を開始した。詩誌発行人に趣意書を送り、発行人は同人・会員に呼びかけると、月末には155人から作品が寄せられた、417日「出版」というスピードだった。

『詩集・阪神淡路大震災』 詩画工房制作 海文堂書店発売 初版1500部 971円+税
表紙の絵 長尾和「二月十四日須磨大池町」

 この詩集は大きな反響を呼び、最終的には、この種の詩集としては異例の四千部まで増刷された。難解だと言われた現代詩が平明となり、それぞれが命がけの体験をするか、目の当たりにするかで、いわば自分たちの詩作活動を問い直す意気込みで書かれており、説得力がある。

 冒頭の詩は、杉山平一「117日 暁暗」

1月17日 暁暗
導入部もなく 伏線もなく
いきなりクライマックスがきた
往復ビンタさながら右から左から
 何ものかに叩きのめされて

 
轟々の地鳴りに 建物 家具 食器の崩落する
ゴー ドターン グワーン バリバリ の大交響楽を
 伴奏に
ドラマは終わった

 
薄明のなかに、うっすら現像されてきた
阪神の一変した すがた

一瞬のカットバック
何ということだろう
在ったものが消え 在るべきものが無くなって
いまや 隠れていたものに気付かされた
水やガスが ひそかに地の中に走っていたことに
世界に開いた日本最大の窓が神戸港だったことに
日本中が神戸の靴で歩いていたことに
日本中の自動車が神戸の部品で走っていたことに
その神戸が止まった 足元を失って
危いかな ニッポン

だが神戸は支える 支えるだろう
無礼な若者 暴走の少年の
隠れていた優しい心も見えてきた
鎮静と秩序を支える文化を持っていることも見えてきた

イギリスの放送は
神戸とは神の戸口の意味だと解説した
見るがよい
戸口には早くも光が見えてくる

 和田の「編集メモ」より。
 阪神間の詩誌発行所・発行人、詩人宛に趣意書を30通郵送、それに電話。「避難先不明」で返送されたところもあった。
 当初はワープロ印刷の予定であったが、詩画工房・志賀英夫が「活字で出そう」と。
 今日も被災地の公園のテント村に雨が降りつづいていた。「愛をありがとう」と書かれた手書きの横幕は、いつ外されるのであろう。青色のビニールシートはいつまで屋根屋根をおおっているのであろうか。心が揺れるのである。

 527日、音楽部門主催のコンサート「こころの響き・大江光作品集から」で、詩人による自作朗読会が行われた。その後も朗読会が開催されるようになった。NHKラジオを通じて世界にも流れた。詩に曲がつけられ、96113日「よみがえれ神戸 はばたけ兵庫の音楽家たち」で発表された。

 詩集は、961月「第2集」、971月「第3集」と出版。さらに、961月には、画家と詩人が協力して、詩画集『鎮魂と再生のために 長尾和と25人の詩人たち』(風来舎)出版。売り上げ収益金は「神戸文化復興基金」に寄付。原画と詩はコープこうべに寄贈され、全国を巡回した。
 





(平野)
『第1集』の寄稿者に、灰谷健次郎、寺島珠雄、多田智満子、栗原貞子を発見。

久々(?)の更新。
NR出版会HP連載「版元代表インタビュー」 新泉社 石垣雅設(まさのぶ)さん
http://www006.upp.so-net.ne.jp/Nrs/memorensai_42.html


「書店員の仕事 特別編 震災から三年」 いわき市鹿島ブックセンター 高木徹さん
http://www006.upp.so-net.ne.jp/Nrs/memorensai_43.html
 
 
 


『ほんまに』第15、増刷するそうな。大丈夫か?

2014年3月24日月曜日

【海】史 アート・エイド・神戸(2)


 【海】史(23

 アート・エイド・神戸(2

アート・エイド・神戸美術展

 初期の活動資金は「亀井純子文化基金」から40万円の助成と、チャリティー美術展の売り上げ。31日から414日、13名の美術家が【海】ギャラリーで美術展を開催。海外からも出品があった。
 売り上げ金の処理について、全額を義援金として神戸市に寄付すべき、という申し入れがあった。一つの見識である。しかし、実行委員会は、非常事態のなかでは必ず文化は後回しとなる、という立場。このような非常時にこそ、心を癒し、希望や勇気を与えるというアートの持つ一面が是非とも必要、と考える。資金管理のための「神戸文化復興基金」つくり、プールすることにした。公的基金への寄付も検討したが、民間からの寄付を受け付けなかったり、支出について議会の承認が必要など、自分たちの目的とは違うと感じた。
「アート・エイド・神戸」はあくまで「文化による復興」を目指す。
「芸術で救えるのか?」という批判に答える。

それは無理や。でも人は空気だけでも、水だけでも生きられへん。「心」の問題は、どんな状況においてもっとも重要な事だ。(「報告 きんもくせい 20005月号 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク発行」より)

美術展の経費(会場提供、人件費他諸経費)は【海】が負担。一部額装製作費のみ差し引き、売り上げ金560万円を「神戸文化復興基金」に入れることができた。

壁画キャンペーン

「今、神戸は空から見ると、ブルーシート一色。街を歩けば、白い工事仮囲いばかり目につきます。あの美しい神戸はどこへ行ったのでしょう」
 建設現場の仮囲いに絵を描こうというキャンペーン。新聞に発表すると、全国から30名以上の応募があった。34日、元町で第1弾。神戸在住のイラストレーターWAKKUNが2.5×8mの壁に描いた。
「見えへんとこにもおりまっせ。友だちがいてよかった」
WAKKUNの作品はこちらで。


 ゴールデンウィークにはJR三ノ宮駅構内で開催。その後、市役所、神戸国際会館など大規模な壁画制作も神戸二紀会や大学美術部の協力で実現した。

芸術関係者緊急支援

 文化復興活動に先例があった。941月のアメリカ・ノースリッジ地震での芸術家救援事業を、ニューヨーク在住の塩谷陽子さんが朝日新聞に紹介していた。少額だが持続可能な支援。
「バブルのはじけた今、不幸な事故にあった芸術家たちに数件、5万円なり、10万円なりの救援金を交付していくことは、低成長時代の日本にとっておあつらえ向きの、しかも長期間できそうな芸術支援……
 島田はすぐに実行委員会にかけ、決定された。

 緊急支援の対象として、今回の震災で住宅やアトリエや楽器や稽古場に大きな被害を受けた芸術関係者(照明や音響やマネージャーなど裏方さんを含めて)のうち

1 芸術家としての活動歴が十年以上であること
2 被害の状況、活動歴について確認できる同一ジャンルの二人の署名
3 一年以内に活動を再開できる予定があること

この三件だけを要件とした。これもアメリカの例に学んだ。
 募集の告知は新聞によった。
 第一次募集 平成七年四月実施 対象三十名 三百万円
 第二次募集 平成七年五月実施 対象三十名 二百三十万円

 一次募集に続いて、すぐに第二次募集に入ったのは、三十名の枠ではとても被災芸術家をカバーできないと判断し、また募金の集まりも順調であったことによる。基本的に一人十万円の支援金だが、夫婦で申し込まれたり、相対的に被害が軽微と思われる場合には五万円とさせていただいた。


 



(平野)

春の天気。ギャラリー島田「須飼秀和個展」(42日まで)、ギャラリーロイユ「戸田勝久展 春の星」(329日まで、木曜休廊)、KIITO「川西英が愛した神戸」(23日で終了)。「須飼」「川西」は紹介済み。

戸田勝久展はこちらを。http://g-loeil.com/galerieloeil/home.html

2014年3月23日日曜日

【海】史 アート・エイド・神戸(1)


 【海】史(23

 アート・エイド・神戸(1

 2月になって、島田は取引各社に礼状を書いた。支援・見舞いに感謝するとともに、営業再開の喜びと今後の心構えを述べている。

……交通機関の途絶したなか、従業員一同「書店を守れ」と、困難と闘いながらの毎日でございます。未曾有の災厄のなか、それぞれが大きな問題を抱えたなかで仕事に励んでおり、この体験が私たちを強く、大きく鍛えてくれたのではないかと考えています。(略)
 人のためになにかしてあげられることはないか。書店という仕事を通じて地域社会に貢献できる道はないか。勿論、今までも努力してきたことですが、今まで以上にその姿勢が問われていることは間違いありません。
 第一段階としては、いち早い営業再開により「明るい灯火を掲げる」こと。
 第二段階は「学童に文具を贈ろう」という運動に取組んでまいりました。今、この運動は兵庫トーハン会の青年部が引き継いでくれました。
 震災から三週間、今は第三段階として、神戸の文化の灯を消すなという「アート・エイド・神戸」という運動の中核として活動する準備を進めています。
 幸いにも生き残った商店街として元町が活況を呈しており営業は順調に推移しております。
 皆様の物(本の流通)、心両面での暖かいご支援が私たちを励まし、勇気づけ、私たちが元気になることが又、被災された皆さんを励まし、勇気づけられることになります。(略)
平成7年2月10日 株式会社海文堂書店 代表取締役 島田誠 (以下店長他従業員一同)

 震災から1ヵ月、「アート・エイド・神戸」が立ち上がる。

生き残った感謝を込めて真剣に自分たちで役に立つことを探していた私のところへ、画家の菅原洸人先生をはじめとする芸術家が、海文堂書店の無事を聞いて駆けつけてくれ、自分たちでできることがないか、と相談を受けた。……

 音楽家、文学者からも申し出もあった。海文堂(本屋と画廊)経営、趣味の音楽、さらに「亀井純子文化基金」事務局など、島田の人との繋がりがになりそうだ。
 芸術全般で実行委員会を組織することに。伊勢田史郎(詩人)を委員長に、音楽家、美術家と島田(事務局長)で6名の委員会。会計監事を置き、文学・美術・音楽部門でそれぞれ呼びかけ人を頼んだ。事務局は【海】。
「アート・エイド・神戸」の名称は、「神戸の文化を自分たちの手で守るという決意と、芸術家自身も神戸の復興のために力を結集するという願い」を込めて。
 船出は、順風満帆ではなかった。

……被災地では「芸術どころではない」「歌舞音曲は禁止」の風潮が満ち満ちていた。芸術家自身も被災している。チャリティーはしないという立場もあった。
 ともかく二月十五日に趣意書を書き上げて、役員就任を要請。十八日、未だ交通機関の途絶したなか、ある人はバイクで、ある人は代替バスと徒歩で、長い時間かけて海文堂ギャラリーへと集まった。

「芸術で神戸が救えるの?」という声もあった。
 

 



イラスト 佐野玉緒 (『蝙蝠、赤信号をわたる』章扉イラスト)

(平野)