2018年5月27日日曜日

夢の口


 宇佐見英治 『夢の口』 湯川書房 1980

 前回告白、画家さんにいただきながらほったらかしにしていた本。函入り、「定価 弐阡円」の表示。
 
 
 随筆と小説。表題作は、夢の考察。

〈朝、誰かによび醒まされるとき、ついいまのいままで見ていた夢が断ち切られてその切口がいたましく感じられることがある。また別の場合には夢の推圧力が急に強まって、おのずと夢の口がひらいたというように、ぽっかり眼がさめることがある。〉

 夢の残像は光に耐えられず消えてしまう。不思議な夢のときは追いかけるが、「あっというまに夢の口に逃げこんでしまう」。

私たちは、《私が夢を見る》と思っているのだが、荘子「胡蝶の夢」のように、「夢を見ている私が実は他の何者かによって夢見られている」と考えることもできる。荘子は、「大いなる目覚めがあって始めて人生が大いなる夢であることがわかる」とも言う。

今私は夢を見ているのか、目覚めているのか、誰かの夢の中なのか。

敗戦直後に書いた幻想小説「死人の書」収録。悲惨な戦争体験と戦後生活の不安を描く。

(平野)

湯川書房といえば京都のイメージだが、本書出版時は大阪市北区西天満。
 PR誌『季刊湯川 1977 VOL.1』発行当時は同老松町。この号の執筆者は、宇佐見他、加藤周一、壽岳文章、小川国夫、肥田晧三、生田耕作。刊行案内には、塚本邦雄、寺山修司、金子兜太、高橋睦郎らの名が並ぶ。

2018年5月20日日曜日

言葉の木蔭


 宇佐見英治著 堀江敏幸編 

『言葉の木蔭 詩から、詩へ』 港の人 3200円+税
 
 宇佐見英治(19182002年)、大阪市生まれ。詩人、フランス文学者。
 本書は生誕100年記念出版。戦中の短歌「海に叫ばむ」、ジャコメッティ(彫刻家)の思い出や宮沢賢治論など代表作の他、詩論、矢内原伊作(哲学者)、辻まこと(詩人、画家)、志村ふくみ(染色家)ら友との交流を綴る散文を収める。書名は「隻句抄 言葉の木陰」より。
 
「戦地へ携えて行った一冊――山本書店版『立原道造全集 第1巻 詩集』」
 宇佐見は出征のとき、万葉集と立原道造詩集を携行した。選んだ理由。
〈万葉集はいまなお通時的な意味で日本語の格調と力感の宝庫である。戦争が何度起きようと私が死のうと(実際今次の戦争で二百三十万人が戦死したが)万葉集が蔵している古代日本語の韻律と魅力は毫も損なわれまい。/しかし人はそれぞれの時代に生まれ、その時代の言葉で夢見、考え、その言葉のなかで死んでゆくものだ。立原の詩集は彼より四年遅く生まれた私の青春の日々を、その翳りと光を、他のどの詩人よりも、密かに私の心に語りかけてくるように思われた。それは私にとって最も身近な詩集であった。〉

 戦後50数年たって、宇佐美は詩集を読み返し、立原道造論を書く。
〈私は始めて読んだときに劣らず、いやそれ以上に立原の詩を新鮮に感じた。比類のない純真さ、優しさ、若々しさに心をうたれた。〉

 戦地に持っていた本と同じ本――友人から借りた昭和16年刊の詩集を机の上に置く。岩波文庫の万葉集とともに戦地でなくした本だ。
〈私は身の置きどころがないほどに一瞬狼狽し、机上に積みかさねてあった他の本の上にそっとその本をさりげなく置いた。さて数刻おいてその本を開いて読もうとしたが詩行とともに五十年前のさわめきが聞えてくるようでとても読めない。それでも数ヶ月の間に一度は通読し、数度覗いてみた。しかし元の位置にもどすと、本がいつしか視線を持ち、過去が私の所作を見つめているようでまことに落ちつかない。かつてこの本を外地で捨てたという思いが罪障のように五十数年わたしの脳裏に住みついているからであろうか。(後略)〉

 行軍の最中、なくしたのか捨てたのか、今となっては思い出せない。1996年、宇佐見は戦中に作った短歌をまとめ「海に叫ばむ」を出版。
……万葉集についてはあの歌集の出版で、いわば菩提を弔ったといえるかもしれぬ。/してみればたまたま立原道造の詩について寄稿を需められたとき、自分が応じたのは無意識に同じ思いがはたらいて、この小文も、あのときなくしたもう一冊を弔うためにここまで書いてきたのだろうか。そんな思いがわが胸を掠めた。〉

 敗戦間近、宇佐美はコレラにかかる。奇跡的に生還した。短歌とは絶縁する。

「海に叫ばむ 後記」
……戦争の衝撃があまりに強烈だったので、戦争と言葉、毎朝歌わされた「海行かば」の曲調、また先輩詩人や歌人が戦中にかけて次第に理性を失い、鬼畜米英というような語を詩人と称する徒が用いるようになったこと、韻律が蔵する魔力の放擲、定型詩のもつ本来の秩序と転結等について、反省し、なぜ日本の詩歌だけが非人間的戦争謳歌に向ったかを究めねばならぬと思ったからである。そのためには集団的狂気に抵抗しうる知的で高貴な、明澄な日本語を築きあげること、詩よりもまず散文を確立すること、それが先決であると思われた。〉(原文旧漢字)

(平野)宇佐見は兵庫県武庫郡精道村(現芦屋市)育ち、旧制神戸一中卒。
 新刊案内を見てメモしていたが、著者の本は初めて。本屋時代、みすず書房の棚に何冊かあったなあ、くらいの印象で恥ずかしい。で、思い出した。画家・古書愛好家からこの人の本をいただいて、本棚に入れたまま。奥の方にあった、重ねて恥ずかしい。

2018年5月17日木曜日

小村雪岱随筆集


 『小村雪岱随筆集』 幻戯書房 3500円+税

真田幸治編
目次
序のかはりに  初めて鏡花先生に御目にかゝつた時
一、装幀と挿絵
二、女
三、舞台と映画
四、町と旅
五、雑
六、泉鏡花と九九九会




 計74篇収録。
 小村雪岱(18871940年)、日本画画家、装幀家、舞台装置家。資生堂で商品デザインや広告の仕事も経験。生誕130年、故郷川越市で記念の展覧会があった(3.11終了)。
 雪岱は美術学校の友人に勧められて鏡花を愛読していた。
「明治四十二年の夏」、雪岱は泉鏡花に「誠に誠に思ひがけもなく」会うことができた。九州の医学者が雪岱の先輩に歌川豊国の模写を依頼するが、都合つかず。代わりに雪岱が宿に通い模写。医学者と鏡花は夫人を通して親交があり、鏡花が宿に来た。
 雪岱は鏡花の家を訪ねるようになり、そこで編集者に鏡花『日本橋』の装幀を依頼される(鏡花が指名)。鏡花を中心にした会に参加すると、その発起人に舞台装置家として誘われる。また、作家から新聞連載の挿絵を頼まれる。雪岱の結婚を世話したのも鏡花だし、画号「雪岱」も鏡花による。

出会いの場面。
〈その時の泉先生の第一印象は、「男にも斯ういふ美しい人があるのか……」と深く感に打たれたことです。今でも綺麗な方ですがその時の先生の綺麗さは又格別で、色の白い美男子で、而も何処かに気骨稜々たるところがあつて、私は只もう恍惚となつたものであう。〉「教養のある金沢の樹木」(「演芸画報」第27巻第9号、昭和891日)

(平野)

2018年5月5日土曜日

古本屋台


 Q.B.B.(作・久住昌之 画・久住卓也)
『古本屋台』 集英社 1200円+税


 かつて雜誌『彷書月刊』に連載していたマンガ。同誌終刊後は『eBookJapan』、『小説すばる』(集英社)で連載。
 見るからに偏屈なオヤジが屋台で古本を売る。

〈夜ふけになるとどこからともなく現れる幻のような古本屋台。白波お湯割り一杯100円。おひとり様一杯限り。珍本奇本あり〼〉

酔っ払いに酒を出さない。騒がしい客、気に入らない客は追い帰す。「ルールはとにかく、オヤジ次第」。いつ、どこで店を出すのかも、オヤジ次第。
古本愛好家や作家が実名で登場。

 Q.B.B.は、『孤独のグルメ』原作者と実弟イラストレーターによるユニット名。

(平野)
 本日のPR誌、『海鳴り 30』(編集工房ノア)。天野忠の童話集原稿から「心に太陽をもったとき」。登場するのは荷車古本屋。ハジメのお父さんは勤めていた出版社がつぶれて、蔵書で古本屋を始める。夜店を出すために本を小さい荷車でハジメもいっしょに運んで、店番をしながら本を読む。漢字の読み方から父と「希望」について話す。

 本日の新聞から。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」世界文化遺産登録の見通し。100年前「五足の靴」も歩いた。

《ほんまにWEB》「奥のおじさん」更新。最近ゴローちゃんの仕事が早い。

2018年5月3日木曜日

五足の靴


 五人づれ 『五足の靴』 岩波文庫 460円+税

 森まゆみ 『「五足の靴」をゆく 明治の修学旅行』 平凡社 1600円+税
 

『五足の靴』は、与謝野寛と「新詩社」同人学生たち5人による九州紀行文集。1907(明治40)年夏、「東京二六新聞」連載。平野萬里、吉井勇、北原白秋、太田正雄(筆名木下杢太郎)は、詩歌誌『明星』に発表し、学生ながら歌人として名が知られていた。
 旅の目的は何だろう。新聞連載は寛が元記者という縁だが、新詩社として戦略があった。これまでも寛は若い同人たちと旅行をしている。「地方在住同人・愛読者との懇親と、『明星』の宣伝、新詩社の
勢力拡張策の一環」(宗像和重、文庫解説)である。当時の文学界は『早稲田文学』を拠点にする島崎藤村、田山花袋らの自然主義と、新詩社の浪漫主義が対抗していた。
『五足の靴』は長く埋もれていたが、戦後、野田宇太郎(詩人・評論家)が発掘。野田はこの紀行文集を、「南蛮文学の嚆矢」「異国情緒を発見」と評価する。野田は森鴎外記念図書館設立にも尽力した人物で、森まゆみは鴎外研究から『五足の靴』に着目する。森は地域文化記録・保存活動で知り合った人たちを訪ねながら、「五足」の足跡を丹念にたどる。

〈たしかにこの旅は、直接的には翌年の北原白秋の詩集『邪宗門』を生み、木下杢太郎の「長崎ぶり」「黒船」「桟留縞(さんどめじま)」などを生むのであるが、彼らの南への旅の憧れはどこから来たのか、(後略)〉

 森は、そもそも「南蛮文学」とは何かから始める。キリスト教が伝来して、日本は西洋文明に衝撃を受けただろう。禁教、迫害の歴史を経て、九州の地で信仰は続いてきた。明治になって禁教が解かれ、新しい西洋文明が日本に流入する。森は、「五足」たちに鴎外文学――特に翻訳『即興詩人』――とゲーテ『イタリア紀行』の大きな影響を見る。

〈西洋というものが日本に入ってきた時、人はその技術を学ぶのに躍起となり、それが「文明開化」であり、「殖産興業」であったのだろうけれど、知識人たちはその技術や思想の因ってきたる精神をも知ろうとして、キリスト教に関心を抱き、さらに日本にキリスト教がもたらされた十五世紀半ばに思いをいたしたのである。〉

「五足」たちはキリシタンの遺跡を巡歴し、土地土地の風景、人、歴史、風俗に親しむ。宿屋の汚れに閉口し、飲んで食べて、時にはしゃいだ。仲間の作品にも刺激を受けた。旅の体験はその後の文学活動の原点になった。
 旅の翌年1月、北原、吉井、太田を含む若手歌人7名が新詩社を脱退、与謝野寛と離れた。何があったのか。森は「あの人は詩人ではない」という言葉を紹介している。同年11月『明星』終刊。「五足」はそれぞれの道を進む。

(平野)