2019年12月26日木曜日

四人組がいた。


 12.20 仕事に行くのに駅で本もPR誌も忘れていることに気づく。電車内が不安、休憩時間が寂しい。他の人がスマホを忘れたときはこんなだろうか。職場とは別方向に小さな本屋さんがある。初めて入った。ご主人がひとりでレジにいらっしゃる。ご近所の方々が入れ替わり来られている。雑誌と実用書がメインで読物は少なめだが、本は傷んでいないし、日焼けもしていない。文庫を1冊、髙村薫『四人組がいた。』(文春文庫)。雑誌連載中に断片的に読んでいたが、シリアス髙村の異色お笑い作品。
 
 

 12.21 孫と図書館。彼女が見たいネズミの絵本があるらしい。係りの人に訊ねると、新春の子年フェアのためネズミキャラクター本を棚から一旦引き上げているそう。上野紀子・なかえよしを「ねずみくん」シリーズ(ポプラ社)の1冊を出してくださった。彼女、大満足。
 
 
 本屋さんで注文品受け取り。元町駅で本年最後の『ビッグイシュー』373号。

 12.24 鵯越墓園。暖かいのは助かるのだけれど、グレタ・トゥーンベリさんに叱られる。

 12.25 孫と図書館。前の本を返して、借りたのは加古里子「だるまちゃん」1冊、なかやみわ「そらまめくん」2冊(共に福音館書店)。
 


 

 12.26 押し迫らないとできない性分。ようやく年賀状作成開始。孫に写真使用を許可してもらう。

(平野)

2019年12月19日木曜日

ほんのちょっと当事者


 青山ゆみこ 『ほんのちょっと当事者』 ミシマ社 
1600円+税
 
 

 青山はフリーのエディター・ライター。これまで多くの人を取材してきた。
 この世の中で起きる悲しい事件・犯罪は自分に関わりのないことか。夫婦や親子のイザコザはヨソサマのことか。ひょっとしたら、幸せいっぱいの人もごくごく普通の庶民も紙一重の線上にいるのではないか。

〈わたしは社会の一員として生きている。/というよりも、社会とは私が生きることでつくられている。わたしたちが「生きる」ということは、「なにかの当事者となる」ことなのではないだろうか。〉

お金のこと、病気のこと、障害のこと、暴力、家族、介護、差別、労働……、青山は社会の問題を「自分事」として考えた。幼少時からの個人的な「困りごと」を語り、その「困りごと」=社会問題のなかに自分を置いて改めて考えた。他人事ではなく、傍観者でなく、自分事をさらけ出した。たとえば表紙絵のセリフ、「じゃあ自己破産します!!」発言は事実。実際はしなかったが。「ほんのちょっと」どころか他にも修羅場を歩んできた。

〈困りごとは、当事者や周りを困惑させもするが、不思議と姿を変えて、困りごとなだけでなくなることもある。考えてみれば、いまのわたしはそうした困りごとがあったから、カタチづくられたのだとも思う。〉

 装丁・名久井直子 絵・細川貂々

(平野)
 12.15 久方ぶりの大阪難波。心斎橋の人波に圧倒される。この人たちはどこへ向かっているのか? 道頓堀の橋の上ではほとんどの人が立ち止まって、そこから動かない。何をしているの? 友人夫妻と食事、また飲み過ぎる。
 12.17 歯医者さん行って、用事すませて、ギャラリー島田お手伝い。終了後、島田社長とお茶。
 12.18 孫と娘、帰省。寂しい老夫婦生活が一気に華やぎ賑やかになる。私、暇な時間はシッター。

2019年12月14日土曜日

古くてあたらしい仕事


 島田潤一郎 『古くてあたらしい仕事』 新潮社 1800円+税

 
 
 島田さん(ここだけ「さん」づけ)、夏葉社設立10年、おめでとうございます。良い本を出し続けてくださってありがとうございます。と言いつつ、全部を購入しているわけではない。ごめんね。神戸の某本屋はずっと応援するつもりでいたのに、退場してしまった。それなのに、記念の本をつくってくださった。感謝。

 島田が起業するときにつくった事業計画書。

〈「事業目的」は、「何度も読み返される、定番といわれるような本を、一冊々々妥協せずにつくることによって、長期的な利益を確保する。そのために、会社を応援してくれる本屋さんを全国に一〇〇店舗開拓し、それらの店を重点的に営業していく」というもの。〉
 
 本をつくること、売ること、読むこと、古い本、新しい本、それぞれに本との出会いがある。

 島田と和田誠との関わりを紹介する。最初の本『レンブラントの帽子』の装丁を依頼した。

〈ぼくは会社をはじめるまで、和田さんとは面識などなかったし、誰かに紹介してもらったわけでもなかった。ただただ、和田さんに装丁してほしいのです、という思いを長い手紙にしたためて、ポストに投函した。(中略、ギャラの額もわからないので、島田は払える目一杯の金額を記した。和田の事務所に彼の装丁した本が並んでいた)和田さんに「手にとって見てもいいですか?」と聞いて、「いいよ」といわれたから、見たことのない本を棚から次々引き抜いて、じっくりと眺めた。/これもいいですね、あれもいいですね、といっているうちに、陽が陰っていった。/二〇一〇年の春のことだ。〉

 装幀・南伸坊

(平野)新潮社は太っ腹、巻末で夏葉社の刊行図書の一部を紹介。私、買わないといけない本があった。

12.12 花森書林にボロ本を引き取ってもらえるか、聞きに行ったら、今から行きます、と。元気な本屋さんは即行動。埃まみれの本を運んでくださる。

12.13 明日本会の忘年会。忙しい年末で、参加者はいつもより少なめ。そのうえカゼやら何やらで体調不良の人も。こじんまりと乾杯して賑やかに。新米弁護士が家まで送ってくれた。

12.14 来週孫が来るので掃除・片付けしないといけないのに、さっさとうっちゃって、映画「春画と日本人」。

2019年12月12日木曜日

川崎彰彦傑作撰


 『川崎彰彦傑作撰』 同刊行委員会発行 
北海道新聞社出版センター出版協力 1852円+税 2016年刊
装幀・装画 粟津謙太郎
 
 
 

 川崎(19332010年)は群馬県生まれ、作家・詩人。太平洋戦争末期から滋賀県の農村で育つ。早稲田大学露文科で五木寛之、三木卓と文学仲間。作品で五木は「一木宏之」で登場する。北海道新聞社記者時代、「まるい世界」が『新日本文学』の「第3回新日本文学賞短編部門」で佳作(入選は佐木隆三)。67年、新聞社退社、大阪府茨木市在住、大阪文学学校事務局に勤め、講師も担当。同人誌を中心に、私小説を発表。本書は友人たちの協力で川崎の「遺言」を実現。

「函館幻燈記」より。
 敬助(川崎)は記者と組合活動の日々。賃上げ闘争で敗北。組合員の罵声に耐え、小説を書かねば、と思う。雑誌応募作品が佳作に入り、作家としてスタート。文学仲間・一木は少し遅れて作詞家になり、作家デビューし新人賞、さらに直木賞受賞。

〈敬助は『新日本文学』に依頼されて書いた短編小説が二つ続けて没になり、すっかりくさっていた。敬助が報道部に出る決心をしたころ、支社の報道部長だった木瀬さんが「報道に出ると筆が荒れるぞ」といった。その警告が現実のものになってきたようだ。ストーリーテラー一木宏之のめざましい活躍ぶりも知らず識らず作用して、敬助は自分のペースを見失ったようだ。柄にもなくストーリーを追う書き方になっていたのである。/敬助はますます酒びたりになり、宿酔は猛烈だった。すこしまとまった記事だとアルコールの力を借りなくては書けなくなった。(中略)敬助は外界に嫌悪と畏怖をおぼえる度合がはなはだしくなった。ゆえ知れぬ不安感に胸を締めつけられるようだった。幻聴や幻覚が始まらないのが不思議なくらいだった。〉

 敬助は自分の心が弱っていると思った。作家一本での生活を決意する。
 
 川崎は中学時代から同人誌・サークル誌を20あまり作ってきたそう。

……たぶん私は同人雑誌というやつがメシより好きなのだろう。(中略)主宰などではなくて、みずからもドングリの背くらべの作品を発表する編集役にすぎない。〉

(平野)
 12.7 前日は職場の会議の後、労働高齢者忘年会。みんな元気で、呑むこと呑むこと。私も調子に乗ったので、二日酔い。ぼーっと働いていたら、マンション管理人は丸5年も経ってしまった。
 図書館調べ物は、医学者・詩人の木下杢太郎。神戸とどんな関わりかというと、神戸市電開通の時、ちょうど旅行で来ていた。それから結婚相手は神戸のお嬢様。
 12.10 我が家は狭小ゆえ、本の置き場がいよいよピンチ。地下に土間があって、古い本を放り込んである。少しずつ古本屋さんに引き取ってもらって、孫の白身魚になっているのだけれど、そんな悠長なことではラチがあかない。掃除も兼ねて整理、いらないものは捨てて、買ってもらえそうな本は白身魚にして(しつこい)、部屋の本を移動しなければならない。年内にできるかは不明。無理だろう。

 

2019年12月7日土曜日

波 12月号

 12.1 父の13回忌法事、妹2人と私たち夫婦出席。お寺さんのことは末妹に任せっぱなし。上の妹と会うのは2月の母17回忌以来。親不孝・家族不孝の長男である。末妹から8月「神戸新聞」掲載の仙台出版社・荒蝦夷代表寄稿「被災地に移住 戦う柳美里さん」記事をもらう。

12.2 昼休み本は本棚鎮座したままだった『川崎彰彦傑作撰』(北海道新聞社出版センター、2016年)。公園読書は春までやめ。

礒崎純一『龍彦親王航海記』(白水社)読了。198785日朝、澁澤の母は庭を見ていた。黒い蝶があらわれ自分の前をひらひら舞う。息子の死を直感した。

〈その日の午後三時三十五分、都内の病室で軽動脈瘤が破裂し、澁澤龍彦は死んだ。享年五十九。/真珠のような大粒の涙がひとつ左の目からこぼれて、一瞬の死だった。その死は読書中の出来事である。〉

 12.3 図書館調べ物。「関戸由義(よしかず)」という明治初めの兵庫県役人・実業家。居留地造成など都市計画・道路整備を立案、指導。長らく出生・経歴など不詳で伝聞情報が多かった人物だが、近年研究が進んでいる。

12.4 電車内読書はPR誌『波』12月号(新潮社)。創刊600号記念で筒井康隆「南蛮狭隘族」。筒井流反戦小説。北村薫「ゆき」(後篇)は有名な江戸俳句の作者探し。先輩作家たちの三島由紀夫いじり話から始まる。その句が出てくる山田風太郎作品、三代目三遊亭金馬落語、俳句全集・川柳全集・俳人逸話集渉猟。新潮社編集者も巻き込んでの謎解き。他の作家たちのエピソードや映画の話も入れながら、いじられ三島、で締める。さすがさすが。11月号も取っておかなくては。
 
 

その人でなくてはできないことをしている人が無残な目に遭う不条理。ご冥福を。

12.5 花森書林に本を引き取ってもらう。家人の雑誌や料理レシピ本と古い文芸書など。前回と同じギャグを入れる。
「孫が帰ってくるので白身の魚を食べさせてやりたい、お情けを~」
 木枯らしや古書を売るヂヂ泣きを入れ (よ)
(平野)

2019年12月1日日曜日

門司の幼少時代


 山田稔 『門司の幼少時代』 ぽかん編集室 2200円+税
 

 
 フランス文学者、作家。1930年、福岡県門司市(現在北九州市門司区)生まれ、小学6年生になるとき父の転勤で京都に。

門司は古くから海上の要衝で、日本有数の貿易港だった。京都に転校すると誰も門司のことなど知らなかった。

……この新興都市は、古い歴史と文化を誇る博多、熊本などにくらべ九州色が希薄だった。言葉からして九州訛がない。ここは物や人の出入りの盛んな貿易都市らしく土着性のとぼしい、どこかコスモポリタン的あるいは無国籍的なところの感じられる土地だったのである。〉

 稔少年の活動域は家の周辺、「大久保越」という新興住宅地。たまに母親の買い物について行く市内の繁華街や隣の小倉、夏休みの家族旅行や母親の実家帰省。幼少時代の思い出は、四季折々家族のこと、近所の人たちのこと、友だちとの遊びや学校のこと。それから戦争のはじまり。担任の先生は出征して行き、自分も転校。卒業していないから同窓会などの案内は来ない。

〈そのような私の耳にも、土屋先生戦死の知らせだけはどこからともなく入ってきたのである。〉

 読書雑誌『ぽかん』連載分に書き下ろしを加え、冊子「少年の港」も。
 凝った装幀、「角背糸篝ドイツ装ホローバック仕上げ」というそう。
(平野)
 11.29 昼休み公園読書、寒さたまらず職場に戻る。
 11.30 リニューアルオープンした神戸市立博物館の名品展。教科書にも出てくる「池長孟コレクション」南蛮美術を久しぶりに拝見。

2019年11月28日木曜日

本はどうのように変わっていくのか


11.27 昼休み公園読書も寒くて億劫、日差し出たので出かけてみたら、桜葉紅葉落ち葉になって、池のカモはゆうゆう泳ぎ、魚咥えて飲み込んだ。 

 津野海太郎 『本はどのように変わっていくのか』 SURE 2400円+税


 編集者・評論家の津野を案内役に、今後「わたしたちの暮らしのなかで、『本』が、どんなものになっていくかを」考える。参加者は、出版業、取次業、書店員、編集者2名、テキスタイル作家(読者の立場)。司会は作家・黒川創。
〈五千年を経て、なお未成熟な「本」について語ろう〉
〈読書という行動〉
〈本で暮らす話〉
 
「電子の本」の出現した時、出版人も読書人も「紙の本」の永続性に不安を持った。同時に「読書する習慣」がなくなるかも知れないとも。
 津野は、「本」の長い歴史と本の世界で半世紀生きてきた経験から、「紙の本」はなくならない、と断言する。「電子の本」もこのまま続いていく、紙と電子は当分のあいだ複雑なしかたで共存していく、その先は不明。
 読書習慣についても、「本を読む人はいなくならないだろうし、いなくなりようがない」と。
 かつて「本」と「教養」は密接につながっていた。難しい本を読んで教養を積み上げていく。でもね、そんな「教養主義的読書」は崩れた。津野は「勉強」という言葉に行き当たり、編集者として付き合った植草甚一を例にあげる。『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』(晶文社、1972年。現在ちくま文庫)。興味あることに自発的に取り組む。そんな若い書き手を紹介している。

(平野)
 私は「勉強」というと学校の「勉強」が思い浮かんで、抵抗がある。もっと軽く考えていい。
 周りの人や子どもたちが困った時悩んでいる時、私は気の利いた言葉を言ってあげられないだろう。「教養」がない。一緒に考えて、「勉強」するしかない。

2019年11月26日火曜日

大きな字で書くこと


11.24 明日本会忘年会案内送信。ヂヂイ年代は返信早い。皆さん待っていてくれたのね。私の案内よりも先に知っていた人もいる。ヂヂイ情報網、恐るべし!

11.26 午前中は図書館、栄町通のこと。明治初めの神戸都市計画・土木工事に関わった人物がいて、なかなかの曲者で面白い。

午後、元町駅から鯉川筋を登る。穏やかな坂道が次第に角度を増す。山手幹線を越えると道は狭くなり、坂はさらに急になる。
石川達三が取材した「蒼氓」たちは、雨に濡れ、ぬかるみに足を取られながら、荷物を担ぎ、子を背負い、坂の上の「国立海外移民収容所」を目指した。東に少し行くと、「トアホテル」跡地。「蒼氓」たちとは別世界の華麗なホテルだった。
現在、収容所は「神戸市立海外移住と文化の交流センター」、資料館・博物館として整備保存され、市民交流の場となっている。ホテルは「神戸外国倶楽部」。
異人館観光の人たちを追い抜き、ハンター坂を下って、ギャラリー島田の「石井一男展・須飼秀和展」。

 加藤典洋 『大きな字で書くこと』 岩波書店 1800円+税



 今年5月亡くなった文芸評論家。憲法9条、日米関係など政治社会問題で発言してきた。右からも左からも批判された。

言論の世界で大きなテーマ・難しいことを小さな活字で書いてきた。小学生の頃は鉛筆で大きな字で書いていたのに。

〈私は何年も文芸評論を書いてきた。そうでないばあいも、だいたいは、書いたのは、メンドーなことがら、こみいった問題をめぐるものが多い。そのほうがよいと思って書いてきたのではない。だんだん、鍋の料理が煮詰まってくるように、意味が濃くなってきたのである。/それが、字が小さいことと、関係があった気がする。/簡単に一つのことだけ書く文章とはどういうものだったか。それを私は思い出そうとしている。/私は誰か。何が、その問いの答えなのか。/大きな字で書いてみると、何が書けるのか。〉

 子ども時代のこと、友のこと、父親との確執など、出会った人たちとの思い出とともに語る自分史。

 岩波『図書』連載分と『信濃新聞』コラムをまとめる。
 しんどいことでも、言わなければならないことがある。批判を受ける。世間が評価するのは何年もあとのこと。それでも引き受けてきた。
(平野)

2019年11月23日土曜日

百艸 達三 龍彦


 11.19 図書館で資料探し、郷土史研究家・俳人・古書店主「岸百艸」。以前古書愛好家の著書で名を知って、『歴史と神戸 第82号 百艸集』(神戸史学会、1977年)を読んだ。調べ足りず、生年没年間違って紹介したことがある。今回判明、1976年に74歳で亡くなっている。『歴史と神戸』創刊時の主要メンバーで寄稿し、同誌特別号をガリ版刷りで会員に配布。古書情報雑誌『書彩』も発行。

百艸「南京町の半世紀」(『歴史と神戸』第7号掲載)は「海の本屋アーカイブ」の 「Blue Anchor 冊子版」7号でご覧いただける。


 クッスー嬢から明日本会忘年会開催要求あり。赤松酒店に予約に行く。会員諸氏、連絡は今しばらく待ってちょうだい。

 
 11.21 通勤電車内と労働休憩中読書は、石川達三『蒼氓』(新潮文庫、昭和5446刷)。夢と希望の「海外雄飛」というより、日本ではどうしようもなくなった人たちの最後の賭け、ワラ、クモの糸。神戸山手の移民収容所に集まり、神戸港から旅立った。鯉川筋に雨が降る。
 富国強兵と言いながら、実は国民を食わせられない国家。でもね、石川が描くのは、新天地での夢よりも希望よりも、絶望を乗り越えて生きていくこと、働くこと、食っていくこと。

 


11.23 ちょっと前から睡眠導入読書は、礒崎純一『龍彦親王航海記』(白水社、2019年)。澁澤龍彦晩年の編集担当者による評伝、索引含め520ページ超、先は長い。今ちょうど最初の結婚破綻のドロドロのところ。そんなことがあったのか~。
 
 

 いつものことながら読んでいるものがバラバラ。無理やりこじつけると、百艸と達三は「元町」つながりで、達三と龍彦は「航海」でつながる。
(平野)

2019年11月19日火曜日

最近南米往来記

 
 11.16 図書館行くも、なぜか調べ物進まず。元町買い物。

11.17 家人と京都、大谷本廟から京都国立近代美術館「円山応挙」。意外に空いている。約1年ぶりに寺町三月書房、ここでしか買えない本がある。

 電車内読書は、石川達三『最近南米往来記』(中公文庫、1981年)。1930(昭和10)年ブラジル移民船に同乗、南米・北米を旅した記録(1931年昭文閣書房刊)。後の『蒼氓』(1935年第1回芥川賞)につながる。

 


ヨソ様のイベント

 石井一男展

 須飼秀和展

11.23(土)~12.4(水) ギャラリー島田
 

 

 恒例ふたり同時の展覧会。11.23「石井展」は、1100から整理券配布。

2019年11月14日木曜日

武・板・川西


11.9 図書館調べ物。明治大正期の神戸風景を絵に残している人たちがいる。

ひとりは「武文彦」(18841972)。川崎造船所勤務時代、松方幸次郎の絵画コレクションをサポートした人物。松方がコレクション開始以前のこと、武の絵画研究を知り、仕事に専念せよ、と苦言を呈したそうだ。実業界引退後、幼少時からの思い出をたどり、姫路・神戸の風物を水彩スケッチにした。私家版『桃源 自序画傳』(1963年)を遺している。
武はスポーツマンで、学生時代(県立神戸商業学校)はボートや野球で活躍した。棚田真輔「神戸野球物語」より(『月刊Blue Anchor691011号所収、海文堂書店、1982年。WEB「海の本屋アーカイブ」の 「Blue Anchor 冊子版」でご覧いただける)。
http://uminohonya.com/

 武文彦が小学生時代の記憶から描いた元町商店街の誓文払い風景(『こうべ元町100年』元町地域PR委員会、1971年の表紙)。
 
 

 もうひとりは「板愈良(いたまさよし、本名・裕生、ゆうせい、18891956年)」、鳥取県西伯郡出身、小学校教員。版画や紙モノコレクションを通じて、神戸の「川西たけを」主宰の趣味雑誌『シブキ』の印刷・製本・装幀・絵・筆(謄写版刷)を担当した。独自の版画技法を編み出した。郷里に記念館がある。

「川西たけを」は本名・健一、生年没年不詳。昭和初めに元町の貿易商社に勤務していた。版画家・川西英(ひで、18941965年)の親戚だが、どのような血縁か不明。英に版画を依頼して年賀状に使っていたり、『シブキ』に英の版画集販売の広告を出している。年齢の近い、親しい間柄であったと思われる。日中戦争時に上海で死亡したらしい。

3人の関係については、南陀楼綾繁「悲しきコレクター 板祐生と川西健一・川西英」(『ハードスタッフ 第12号』先鋭疾風社、2008年)が詳しい。

板愈良の謄写版画「神戸ステンショー及ヒ相生橋之景」(『シブキ 神戸新名所の巻』 川西健一編輯・発行、1927年)。当時の神戸駅と駅東の跨線橋。

 

11.12 職場の研修会終了して、小林さん福岡さんとワイワイ一杯。
 均一棚で買った詩人エッセイ集、読んだことある、と思ったら、やっぱり。そんなことはしょっちゅう。わっはっはー、で再読。

 ヨソ様のイベント
 さとうゆうすけ絵本原画展『ノロウェイの黒牛』


11.21(木)~12.9(月) 花森書林
詳細はこちらを。
https://hanamorishorin.com/