2014年4月30日水曜日

詩人たち ユリイカ抄


  伊達得夫 『詩人たち ユリイカ抄』 平凡社ライブラリー 1200円+税 200511月刊

 

元本は1971年日本エディタースクール出版部より。書肆ユリイカ社主・伊達得夫(19201961)の遺稿文集。
 伊達は京都大学卒業後、出版社編集部勤務。46年旧制一高の学生だった原口統三が入水自殺した。新聞記事には伊達は関心がなかったが、数日後に載った読書新聞がくわしく原口について書いていて、友人たちが彼の遺稿集を出版したいと語っていた。伊達は一高の寮を訪ね、翌年遺稿集『二十歳のエチュード』を出版した。ベストセラーになるが、同年会社は出版不況で倒産。伊達は48年「書肆ユリイカ」を創設して、『二十歳のエチュード』を再度出版。主に詩集・詩論を出版、多くの詩人に発表の場を提供した。

目次 

ふりだしの日々  「余は発見せり」  パイプはブライヤア  首吊り男  消えた人 ……
青春不毛  活字  スヰートピイと駱駝  ヘソとプロマイド  幾歳月 ……
詩人のいる風景  喫茶店・ラドリオ  手紙  悲しき玩具  売れない本の作り方 ……
童話  思いつき先生のこと  サキコのこと  りんごのお話(未完)  後書・中村稔
書肆ユリイカ出版総目録
解説・大岡信
平凡社ライブラリー版解説・大岡信

 以前紹介したように、社名は稲垣足穂の示唆による。伊達は『二十歳のエチュード」再出版にあたり、学生寮を訪問。学生たちと話していて、ベッドの上にあったポオの宇宙論『ユリイカ』(牧野信一訳)に目をひかれる。数日前に足穂と呑んで、彼がその本の話をしてくれた。

ポオの『ユリイカ』を知っているか。ポオは原稿を書いても誰も買ってくれなかったから、場末の酒場で浮浪者を集めて、自分の原稿を読んできかせたのだ。誰も聞いてる奴はいなかった。またあの気狂い奴がしゃべってる、と人は思っていた。その原稿が「ユリイカ」だった。アメリカにも、やっぱり、あんたみたいな編集者がいて、その「ユリイカ」を本にしてやった。しかし、二部、ほんとうに二部しか売れなかった。首をつって死んだ牧野がそれを訳して第一書房から出したが、日本でもやっぱり売れなかったろう。……

 伊達は46年に足穂の雑誌エッセイを読んで、彼を訪ね、『ヰタ・マキニカリス』原稿1000枚を預かったが、倒産で出版できなかった。49年、ユリイカで発行。

 かれはこの本をたいへん喜んでくれた。素人くさい造本で、いま考えるとはずかしいような本だけれども、仙花紙はなやかな当時の店頭では、豪華なモノに属していた。日本一の出版家だ。これは世界的な出版です、と言ってくれたが、あまり大げさすぎてほめられたような気にならなかった。そして、かれはその世界的な本に、さらさらと署名して、その場で下宿の女中に謹呈した。

 足穂は精力的に作品を発表し、収入は「惜しみなくアルコールになっていた」。アルコールが切れると手はふるえ、言葉はもつれ……。夜逃げのように東京を離れ、しばらくして戻ってきた時には、絶食、モク拾い、アル中症状。伊達は、「ああ、この稀有な才能もこうして亡びるのだろうか」と破局を予想した。
 しかし、奇蹟。足穂に紹介した京都の女性が、「あの人と結婚しよ思いますの」と。

 目を見張った僕の前で、しかし、さりげなく彼女は「ほんまに大きな不良少年ですわ」と保護司らしくつけ加えた。

(平野)
ほんまにWEBにまたまた新コーナー。
「阿倍野のしろやぎさん」と「倉敷のくろやぎさん」往復書簡
喜久屋書店のしろさんとくろさんが本屋の現場を語り合います。第1回はしろさん。
http://www.honmani.net/




2014年4月29日火曜日

東京遁走曲


 稲垣足穂 『東京遁走曲』 昭森社 1968年(昭和438月刊
装幀 亀山巌

目次 東京遁走曲  わが庵は都のたつみ――  随筆ヰタ・マキニカリス
 
 

 酒と貧乏の東京を脱し、京都に移るまで。
 足穂の東京生活は、1919年の自動車運転免許取得のための上京、21年からの佐藤春夫書生生活・新進作家時代(32年から明石・神戸)、37年から牛込区横寺町住まい。「夜具の他に身辺無一物」(折目博子『虚空 稲垣足穂』)でアル中状態。

 あの十二月八日、私は大塚病院の伝染病舎のベッドにいた。
「彼は大事な商売道具であるインクのはいったインクビンを質に入れたそうだが、私にも同じ経験がある。ちがうのは彼が独身であったのに反して、私には妻子の外に女中もいたということだった」と草野心平が書いていた。私の窮状は倉橋弥一が昭森社の森谷均に伝え、森谷大人から心平に語られたものに相違なかった。大正十一年の春から太平洋戦争まで、私は牛込横寺町の路次うらで心平がいっているような月日を送った。(略、近所の縄のれんにやってくる人たちにたかっていた)「おまえのような奴は監獄か避病院へ行かなきゃ悪癖は治らん」といわれていた。その通りに、チフスに罹って病院行きになったのである。

「あの十二月八日」とは日米開戦の日。
 戦争中、出版社からの前借も思うように行かず、おごってくれていた仲間たちは四散し、若者は出征。我が身は徴用となったが、それで食いつなぐことができた。

 私は戦後約十ケ所を転々してから、昭和二十二年の夏に、戸塚グランド坂上の旅館の一室に居を定めたものの、翌々年の五月には越中の城端町まで逃げ出さねばならなかった。一ケ月で再び東京へ舞い戻り、一夜のねぐらをうつり変って、小出版社の土間に椅子を三脚ならべて夜毎のベッドにするようなことがあったあげく、江戸川乱歩の好意でやっと中野駅近くの横丁に、二階の三畳を借りることができたのである。

 外食券を換金してカストリ酒、食べ物は日にコッペパンひとつ、絶食の日もあった。痩せ衰え、鳥目に。駅でモク拾いをする日々。

 いつになったらこんな窮状から抜け出されるか、その当は全然なかった。しかし「大変な時代が来ようとしている」なんて別に思わなかった。自分には物心がついて以来ずっと「大変な時期」であったからだ。コッペの変えない日が続いた。

 書肆ユリイカの伊達得夫が学生時代からの知人・篠原志代を足穂に紹介する。西本願寺の有髪の尼で、看護婦・助産婦で福祉司、当時33歳、子連れ。

 原則として妻子を持っている人間を自分は信用しないことにしていた。持てば憂し持たねば人の数ならず捨つべきものは妻子なりけり。これが私の心境であった。

 その足穂が決意した。

「ああこの二者共同の魂の貧困! ああこの二者共同の魂の汚れ! ああこの二者共同のみじめな安逸! 人これを呼んで結婚という」先方が美人でも心中の片割れでもなく、また宿痾に悩んでいる人でもなくて、本願寺派の有髪の尼僧であることが、少なくともニイチェのいう結婚地獄をまぬがれしめるだろうとの見込みがあった。(略)彼女側ではまた新潮でわたしのエッセイ(『美少女論』)を読んで、これなら自分のことも判ってもらえるだろうと思ったのだそうである。つまり結婚とは互いに離れ離れになっている両半球を合わせて、一箇の球に仕上げる難事業であり、たとい一方の半球がいびつであろうと、また朝顔型にひらいていようとも、お互いに心づかいをして、工夫を凝らして合致せしめねばならないと論じている箇所が、それに当る。

  昭和二十五年二月二日の深更近くに、東京駅を辷り出した大阪行準急がまず新橋駅に停った時、私は、いつのまにかこんなにまではびこり繁茂している彩光真空管のシャボテン林に眼を見張りながら、それら赤青紫白の光の花々に東京への訣別を託した。この別れの念を裏付けるように、潤一郎の『芦刈』の舞台が拡がっていた。もう東京へはこないつもりであった。そこでは振出しから明るい思い出はなかった。ことに最後の十年間における西側の電車、西武、中央、京王、小田急、東横、目蒲、池上、南武の諸線はその名を聞いただけでもゾッとするのだ。

形としては、志代が足穂を京都に引き取った。

(平野)

2014年4月28日月曜日

タルホ神戸年代記


 稲垣足穂 『タルホ神戸年代記』 第三文明社 19904月刊

装幀 戸田ツトム  装画 まりの・るうにい
編集・解説 高橋康雄 宇宙的郷愁



目次
 夢がしゃがんでいる  星は北に(たんだ)夜の記  菫とヘルメット  古典物語  RちゃんとSの話  緑色の記憶  或る小路の話  鼻眼鏡

 きらきら草紙  明治大正少年気質  緑の蔭――英国的断片  神戸三重奏

 蜩  北落師門  夢野

 星を造る人  星を売る人  煌ける城  青い箱と紅い骸骨  神戸漫談  木犀

 タルホ神戸ノスタルジー。

「或る小路の話 キネマの月巷に昇る春なれば」より

 中3になる春休み、友だちの前田と青い街燈のともる山手通りを西へ歩く。彼は野球ばかりして落第、父親に西洋人の学校に転校させられていた。私は月に何度か彼を訪ねる。学校の様子を聞くと、

「男の子はやんちゃ(・・・・)ばかりだが、女なら一人いいのがいるよ。混血児でね――ガスの光で育ったような顔をしているんだ」
 とたんに私はハッとしました。それこそ自分が云わねばならぬわけで、今回の事柄が何よりも自分の領分のものだということはともかくとして、私は現に、一週間ほど前に、まさしくそんな少女を見かけて、しかも前田が云った言葉とそっくりの感銘を受けたからなのです。……

 どんな少女か?
「びっくりしたように見開いたまつげの長い二重まぶたの青い眼……菫のようなハイカラーさ……二つ三つ下で、紺色の服と帽子、その色合いがアーティフィシャルな顔の白さとよく調和して、たいそう品よく……」。
 前田がその少女を紹介すると言う。私は、西洋人の友だちができると思うと胸がときめく。でも、友だちになって、一体何をすればいいのか、臆病になる。トアホテルの塔が見える坂道に出た時には、気持ちは沈んでいた。前田は裏道を抜けて学校に行く。大邸宅、鉄柵、板塀、細い通路、急な石段、ガス燈……、映画のシーンそっくりで、シルクハットにマントの人物が現われるような気がする。前田は、少女はピンポンをしているはずだ、と私を残して裏門から校内に行く。少女が来たらどう挨拶すればいいのか……

 
「居なかった」と前田は云いました。

…………

「どうしよう――元町へでも出てみようか?」
「うん」と私は頷いて一緒に歩きだしましたが、この時初めて、前田がさっきから機嫌が悪かったらしいことに気がつきました。が、私はそれをちょうどよいことに思ったのです。その前田が、別に自分を気の毒がりもしないように、自分もまた、前田をも、その他の誰をも、気の毒には思うまい……そんなことを考えて石段を下りかけた時、ちょうど正面の真黒い三角屋根の上に、そこを離れたばかりの大きな月が懸かっているのを見ました。
「まあまあ!」と私は心の中でつぶやきました。それがそんなにまんまるく、赤く、靄のために磨硝子を通したようにぼやけて、いつもRising Moonというものを感じさせる、あの遠い郊外の野で誰か自分の名を呼んでいる物があるような、奇妙なはろばろしさを起こさせたからです。が、とたん、ドン! と胸板を突かれたように、私は、このキネオラマのような月が差し昇る春なればこそ、自分はガスの光で育ったような少女といっしょにぴかぴかしたロードスターに乗って、アスファルトの上を走るのでなかったか! ということに思い当りました。何故これ(・・)に気づかなかったのか? ……
 口惜しさと物悲しさ、もし少女が現れていたら、こんな気持ちにはならなかっただろう。でも、少女がいたら、この月はどう見えただろう。無言で前田と迷路のような小路を抜けて広い坂道を下りた。
……へんな満足と物足りなさの交叉点に立った私は、赤い月と、その下の海に浮かんだ碇泊船のケビンから洩れる灯を見くらべて、迷っていました。

(平野)

2014年4月27日日曜日

角川文庫 少年愛の美学


 稲垣足穂 『増補改訂 少年愛の美学』 角川文庫 19735月初版 
(私が持っているのは80111版)

装幀 杉浦康平

 手持ちのタルホ本もあとわずか。文庫から1冊だけ紹介。

解説 種村季弘

『少年愛の美学』は、表題からも察しがつくように、稲垣足穂のエロチシズム研究を主題にしたエッセイである。もともと百科全書的なひろがりを持つ稲垣足穂の世界は、譬えていえば、虚空にばら撒かれた夥だしい星座から成り立っていて、その一つがたとえば飛行機物語であり、たとえば宇宙論、たとえば哲学小説、鉱物学や機械学、詩的綺想文、ミニアチュレスクな風景画、喧嘩腰の観相術、さらにはエロチシズム研究などであって、それら一つ一つが互いに明確な距離を置きつつアナロジカルに照応し合っているのであるが、このうち本書は、『A感覚とV感覚』とともに、エロチシズム研究の集大成をなしていると言って差支えない。(略、本書は三部構成)幼少年におけるオブジェ嗜好、壮年における抽象への情熱、さらに老年の澄明なイデア界への追憶と発展していく三部構成のなかには、人生の朝昼晩がすべてさりげなく象嵌されている。しかもそのすべてが「セックス以前」または「セックスの彼方」にあって、このエロチシズム論にないものといえば、セックスの生臭さだけなのである。……
 
 

(平野)
 4月26日(土)「古書 うみねこ堂書林」開店! おめでとうございます
 

 電話とファックス 078-381-7314
 
 
 私、日夏耿之介『風雪の中の対話』(中公文庫、1992年11月)を購入しました。

2014年4月26日土曜日

星の声


 萩原幸子 『星の声 回想の足穂先生』 筑摩書房 20026月刊 
装幀 クラフト・エヴィング商會

 1925年東京生まれ。49年、古本屋で足穂と出会い、読者になる。69年『足穂大全』(現代思潮社)、2004年『稲垣足穂全集』(筑摩書房)の編集に加わる。
 戸塚グランド坂下(こう書いていて、私、地理感覚なし)の狭い小さな古本屋に、萩原は本を売りに行った。

 古本屋の主人が私の持って行った本を品定めしているあいだ、棚の本を眺めていると、そこへ二人連れの男性が入ってきた。先だった人が一升壜を下げていて、振り向くと、主人の脇に立ったその人がこちらを見た。面長な顔の表情が柔らかく、この時のその人は若く見えた。メガネはなく、下着の上に直に薄茶色の背広の上着を着ている。……

 その人が台にあった本を手に、近づいてきた。

「若い人はこういう本を読まなくては行けない。僕は稲垣足穂です。これは僕が書いた本です」

 萩原は足穂の名を知らなかった。突然で返事もできなかった。すぐにではないが、本をくれると言う。お酒が入っているが、無邪気で明るい。お連れの人も主人も声を立てて笑い出した。彼女は恥ずかしくなって店を出るが、足穂が追いかけてきて、飛行機の爆音の口真似をしたかと思うと、真面目な顔で自己紹介らしきことを早口でしゃべる。急に烈しい口調になり、

「男も女もみんな嫌いだ! 女の人がいちばん美しいのはカトリックの尼さんです。キリストの花嫁になって下さい」
 私の返事など待ってはいず、矢継ぎ早に言葉が続く。その人から発散する異常なある力があった。周囲の生暖かい空気を切って払い除け、相手かまわず心の奥までさらすゆさぶるような気迫。気を呑まれて、眉根をよせたずっと年上のようにも見えるやや険しい横顔を見詰めた。このような人はいない、苛烈な痛ましい、おそらくは優れた人がむき出しに世に紛れ、今、ここにいるのか。……

 後日、古本屋の主人に、足穂からの本を渡された。『ヰタ・マキニカリス』。
 足穂の寄宿先を訪れ、手紙を書き、足穂が京都に落ち着くと年に何度か訪ねるようになる。
 前に紹介した折目は弟子で、近所に住んでいたから、日常の足穂を描いていた。足穂は文学の指導もすれば、家族ぐるみのつきあい。時に下ネタも披露した。
 萩原との会話は哲学的文学的。しかし、孤高の文学者の態度は一貫している。
 書肆ユリイカの伊達が亡くなって、全集が中断した時。

「残念ですね」
と、言わずもがなのことを口に出すと、火鉢の向こうの先生はゆっくりと背筋を正しながら、
「そのほうがロマンチックじゃありませんか」
 静かな声にやわらかな矜恃を感じた。そして「余計なこと言うな」と言われたような気がしたけれども、あの言葉には、逝かれてからまだ日の浅い伊達さんへのお気持もあったのかもしれない。……


 
 足穂の最期を看取った人でしょう。
(平野)

2014年4月25日金曜日

鳩よ! 特集 稲垣足穂


 『鳩よ!』19927月号 マガジンハウス

特集 稲垣足穂 天族作家とただいま交信中

目次

異次元からのマジカル・メッセージ 『一千一秒物語』から
聖三角形Y・M、T・S、T・Iそして  高橋睦郎
軽さの蒐集室 タルホ・プラネタリウム  種村季弘
物質の将来に梯子をかけて唯々諾々の星を盗る  松岡正剛
「瞬間」の形而上学  鎌田東二
二十一世紀ダンディー心得帖  香川眞吾
コリントン卿の幻想  稲垣足穂
TAROUPHOめもりある  萩原幸子
タルホ・アンケート集 超時空からのアンサー
タルホとワタシ
TAROUPHO GALLERY  七人のアーティストが描く タルホ・ワールド
赤い雄鶏(パテエ)探して…タルホの旅  文・永田守弘 写真・高嶋清俊 
(三島・澁澤対談は以前紹介したものと同じ)

 

高橋睦郎
 イニシャルは三島由紀夫、澁澤龍彦、稲垣足穂。それぞれとの出会い、その後の関係。
 高橋が京都の足穂を訪ねたのは65年の夏か秋。それからは年に56回。

……稲垣さんはそこで夏は褌一本、冬も褌の上に浴衣だけで執筆している。原稿用紙は同人誌「作家」から送られてくる原稿ガラの裏面に罫を引いたもので、鉛筆はそれだけでもなかったろうが削り節の付録のそれだけが印象に残っている。

 博覧強記で知られるが、本は広辞苑だけ。あとは封書、葉書の束とメモ。

 訪問客があると酒になる。ぼくは酒が好きやない、嫌いやから飲むんです、だいたい好きで飲むなんて猥褻やないか、というのが口癖だったが、同じ論理でいけば、客が好きやない、嫌いやから会うんです、ということになるだろうか。猥褻の反対はダンディズムだろうから、来客へのサーヴィスは稲垣さんのダンディズムだったのだろう。ほとんど早口の独り語りだが、語りの内容は美少年からヒップナイド、かものはしから無底の宇宙、インド哲学から見だしなみ、そして小説たれかれの悪口……と、とめどがない。
 

(平野)

2014年4月24日木曜日

虚空 稲垣足穂


 折目博子 『虚空 稲垣足穂』 六興出版 19804月刊

目次

序   足穂との出合い
第一章    足穂の生い立ち
第二章    足穂の上京
第三章    明石時代
第四章    再度の上京
第五章    足穂の結婚
第六章    京都時代
第七章    晩年の足穂
附   稲垣足穂から篠原志代への手紙
あとがき



折目(192786)は京都生まれ、小説家。略歴に「1950年より足穂に師事~」。弟子による足穂評伝。
 50年(昭和25)秋、彼女は京都のお寺の施設にいた足穂を初めて訪ねた。

 一見して容貌魁偉、足穂は眼も鼻も口も大きく閻魔様というよりもっとヨーロッパ風に、すでに魔王と呼ぶにふさわしい風貌をしていた。六畳くらいの部屋二間が一家三人の住居兼台所で、隅に七厘や青い葱など置いてある。
 対座してお話をし出すと、魔王の先生は驚くほどデリケートな心を持った人だった。それは、たくさんの悩みを悩んできた人の優しさだった。私の話すことに耳を傾け、強い好奇心を示される。(略)
 その日、稲垣足穂五十歳、わたし二十三歳。当時、まだ凡てに無智だった私であるが、さすがに稲垣足穂訪問は心に深く感じるものがあって、その住居にも何度か行っている。足穂が大変な酒呑みだということを知って、以後は必ずお酒を持参した。足穂は、すぐにびんの蓋をあけて酒を飲んだ。お世辞にも美しいとはいえない特別大ぶりな顔を苦痛そうに顰めて、毒薬でも飲み干すように、まず嚥下するのが彼の常だった。……

 折目は、足穂の「白鳩の記」(少年時代憧れた飛行機乗りの墜落死を書いた作品)によって、彼の文学に開眼した。
 足穂は折目をアンヌと呼んだ。

 一にWonder二にWonderですよ。文章は、人眼をひかなければいけない。人を驚かさなければいけない。それには調子高く出ることです。

 アンヌあなたの文章はさわりばかりだね、それでは人は苦しくて読めたものじゃない。

 アンヌ、調子が低いぞ。もう一オクターブ高くやれ。

……

 足穂は必ずエンピツで書く。当時、花鰹のだし袋におまけに入っているエンピツを、切り出しナイフで丁寧にけずってそれで書く。私にも次のように原稿下記の要領を教えられた。
「まず小さな紙片、メモ用紙とか、広告のはしきれなどそういうものを用意しなさい。そして随時、思いつくままに書くとよい。夜、寝る時も枕元においておくのです。大きな立派な原稿用紙、これはいけません。紙に圧倒されます。万年筆もインクの出具合その他で不自由だ。小さな紙片にこそこそ書きつらねているうち、これが膨らんでくるようなとき、いい作品が生れる。」

 折目の夫は学者で、足穂は本や資料を頼んだり、夫人同伴で訪問したり。
 折目の娘が亡くなった時は、折目の小説の序文に死を悼む文章を添えた。そして、語った。

 どうです。これでアンヌも自分が真正の芸術家だということを自覚しただろう。真の芸術家は実生活では不幸と相場が決っているものなのです。

 弟子が見た足穂50歳から76歳までの素顔。
(平野)

『ほんまに』新規取り扱い

【神戸市】

清泉堂書店 三宮センタープラザ店 078-381-6633
http://seisendou-kurachishoten.com/
ありがとうございます。

 元町に新しい古書店が開店します!

古書 うみねこ堂書林 426日(土)1100から

店主は探偵小説研究家。【海】の顧客であり強力なアドバイザーでありました。

場所は南京町西門の南、以前「ひさご食堂」だったところです。
650-0023 神戸市中央区栄町通2-7-5

電話は未定となっています。わかり次第お知らせします。
 
 
 

2014年4月23日水曜日

タルホ逆流事典


 高橋康雄 『タルホ逆流(ぎゃくる)事典』 国書刊行会 19905月刊

「タルホ・フラグメントの威力」――まえがきに代えて 高橋

 私は言葉の切れ端が好きだ。とりわけ切れ端の尻尾になってもなおかつ活きている存在が好きなのだ。
 その言葉の断片がさながらオブジェのように光彩を放っているのはなんといっても稲垣足穂の世界である。薄板界、A感覚、菫色反応、パル・シティ等々足穂命名による気配の哲学の概念がすぐ思い出される。そしてそこには()()棲んで(・・・)いる(・・)。伝統、風習、という慣例からの解放が何よりの特色である。……

 高橋が惹かれるのは美の価値観。
 足穂の「わたしの耽美主義」から。

 わたし達が今後の耽美主義に望むところは、恰も花火やタバコのような感じのものである。それを従来のものと比較して述べてみると、……昼より夜の方がよく、芝居よりキネマのほうがより新興芸術的で、述懐よりは対話、短刀よりはピストル、(略)それから太陽よりも月――切紙細工のニューヨーク夜景の上に差昇った月ならいっそう嬉しい。そのお月さまよりも星。(略)金よりも真鍮。プラチナよりもブリキ。水晶よりも硝子。ダイナマイトよりもスタヂオに使う有煙火薬――深夜の都会の上空に炸裂したマグネシヤ式光弾ならば申し分はなし。(略)さてピカソよりもピカビア。モーパッサンよりもクラフトエビングの記載。夢よりもうつつ。過去よりも未来。判ったものよりえたいの知れぬもの。完全なものよりも半端なもの。立派なものよりも下らないもの。(略)四角なものより三角のもの。丸いものより尖ったもの――したがって踊子の絹沓下よりも少年のパンツの前にある凸起の方が遥かに感覚的ではあるまいか。

「生の連続」から。
人間の枠をはみ出したところ、根本的歴史から逆流(ぎゃくる)するもの、そういう場所に、僕のいう精神性があるわけですね。

 常識や世間の評価にとらわれない足穂の言葉・思想の数々を拾い集め、150のキーワードで“タルホ事典”となった。

 VよりA、ペンより鉛筆、天使・幽霊よりお化け、コーヒーよりココア、権力より乞食・放浪・獄中、赤色より菫色、形より匂い、人間より人間人形、贅沢より残り物、報酬より無報酬、本物より予告篇、判るものより判らないもの、……

 装丁 中島かほる  カバー装画 野中ユリ
 
 
 
(平野)

2014年4月22日火曜日

タルホ入門


 稲垣足穂 『タルホ入門 カレードスコープ』 潮出版社 19871月新装版刊

元本は74年『カレードスコープ 多留保集3』(同社)。

 

藤の実の話――退屈で困っている二人の青年の間に交された一片
云いたい事一つ二つ――自作を回顧して
鸚鵡の一件――最近の佐藤春夫氏
云わしてもらいます
タルホ入門――初学者諸君のために
機械学者としてのポオ及び現世紀に於ける文学の可能性に就いて
無限なるわが文学の道

……


『弥勒』――わが小説
僕のオードーヴル
『死後の生活』――名著発掘
銀河鉄道頌
黄薔薇――ランボウ抄
サド侯爵の功績
南方学の密教的な貌――南方熊楠

……

解説 巖谷國士
装画 まりの・るうにい  装幀 戸田ツトム


 
「無限なるわが文学の道」より

 西脇順三郎先生によると、詩というものの秘密は、互いにかけ離れたもの、正反対のもの、意想外なもの同士の連結である。これによってわれわれの功利的日常性が一時的に破壊され、われわれは解放されるわけである。
 こういうことを一応あたまにおいて新しい詩に接しられると、多少は見当がつくかと思う。この思いもかけぬもの同士をつなぐのが芸術の役目なのである。ボードレールの詩句に「スミレはパンであった」というのがある。それから有名な例に、イジドル・デュカスこと、ロートレアモンの「解剖台上におけるコーモリ傘とミシン(裁縫機械)の出会いほど美しいものがあろうか」がある。(略)
 私において考えられないものの連結は、人間と天体である。だから私の処女作「一千一秒物語」の中では、お月さんとビールを飲み、星の会合に列席し、また星にハーモニカを盗まれたり、ホウキ星とつかみ合いを演じたりするのである。この物語を書いたのが十九歳の時で、以来五十年、わたしが折にふれてつづってきたのは、すべてこの「一千一秒物語」の解説に他ならない。
「ある日、世界のはてから一千一秒物語が届いた。ずっと以前どこかで読んだ本、またずっと未来にどこかで出くわすような本」このように一千一秒物語を評した女性がいる。だから私の仕事は末長く続くのでなければならない。たぶん今から五十年後、二百年後、五百年後にも、自分はどこかでいまと似たことをやっているものに相違ない。……

(平野)
NR出版会HP連載「書店員の仕事 特別編 震災から三年を迎えて」第2回
南相馬市おおうち書店大内さん「天職としての本屋(上)」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/Nrs/top.html

2014年4月21日月曜日

稲生家=化物コンクール


 稲垣足穂 『稲生家=化物コンクール』 人間と歴史社 19909月刊

目次 懐しの七月  山本五郎左衛門只今退散仕る  稲生家=化物コンクール

解説 高橋康雄  動くオブジェと平太郎少年と山本氏と  

装幀 戸田ツトム+岡孝治
 
 

 足穂妖怪譚。備後国三次の妖怪伝説が平田篤胤によって広まった。絵巻にもなった。明治には講談で人気。泉鏡花や巌谷小波が小説にした。足穂は篤胤「(いのう)物怪録(もつけろく)現代語訳。

 稲生平太郎少年の屋敷に毎夜物怪が出没。平太郎は怪奇現象に冷静に対応、ついには総大将・山本五郎左衛門が登場。

「さてさておんみ、若年ながら殊勝至極」と云うので、「其方は何者ぞ」と口に出すと「余は山本五郎左衛と名乗る。やまもとに非ず、さん(・・)もと(・・)と発音いたす」僕「そは人間の名にあらずや。そちは人間にてはよも有らじ。狐なるか、狸なるか?」重ねて問いつめると、山本は笑を含んで、「余は狐狸の如き卑しき類いにあらず」「狐狸にあらずば天狗なるか。いずれにしても正体を現わし云え!」「余は日本にては山本五郎左衛と名乗るぞ。如何にもおんみの云う如く人間には非ず、さりて天狗にもあらず。然らば何者なるか? こはおんみの推量に委ねん。余の日本へ初めて渡りしは源平合戦の時なり。……

神野(しんの)五郎という同類いることも伝える。また悪さ始める炬燵ぶ。舞い上が人ののようになる。湯気が立ち、動き出すと、それはミミズ。平太郎ミミズ苦手、大嫌い。身体に這い上がってくる。気味が悪いが、
「只気を失わぬのを取得に頑張っていた」ら、怪奇現象は納まった。
「さてもおんみは気丈なるよ……

 本五郎左衛門の顔が壁に浮かぶ。青く光った巨大な顔、蜻蛉の目玉のように飛び出した目で睨む。彼が言うには、平太郎は難に遭う年、その日がきたため驚かせたが、恐れないので思わず逗留してきた、これから九州に向かう。
「以後何の怪異もあるまじ。神野悪五郎も来るまじ」そう言って手槌をくれる。

「さればこの槌をその許に譲るあいだ、若し怪事あらば北に向って、山本五郎左衛門来れと申してこの槌にて柱を強く叩くべし。余は速やかに来りておんみを助けん。さても長々の逗留忝なし」

 両者お辞儀し合う。山本五郎左衛門は大勢の供廻りと消えた。
 一夜明け、騒動が落ち着き、平太郎には「何か悲しい澄んだ気持」が残る。皆は、まじないや薬でも教えてもらっておけばと言うが、気づかなかったのだから仕方がないと思う。

 只、神野悪五郎の名と槌が残されたに過ぎぬことは、僕にも甚だ名残惜しく思われる。でもその槌で以て柱を叩くには及ぶまい。あんな事は一度切りでよいではないか。本五郎左衛門の顔を僕は生涯忘れることはないであろう。槌を打つ心算はないが、僕の心の奥では次のように呼びかけたい気持がある。山本さん、気が向いたら又おいで!

(平野)