■ 稲垣足穂 『タルホ神戸年代記』 第三文明社 1990年4月刊
装幀 戸田ツトム 装画 まりの・るうにい
編集・解説 高橋康雄 宇宙的郷愁
目次
Ⅰ 夢がしゃがんでいる 星は北に拱く夜の記 菫とヘルメット 古典物語 RちゃんとSの話 緑色の記憶 或る小路の話 鼻眼鏡
Ⅱ きらきら草紙 明治大正少年気質 緑の蔭――英国的断片 神戸三重奏
Ⅲ 蜩 北落師門 夢野
Ⅳ 星を造る人 星を売る人 煌ける城 青い箱と紅い骸骨 神戸漫談 木犀
タルホ神戸ノスタルジー。
「或る小路の話 キネマの月巷に昇る春なれば」より
中3になる春休み、友だちの前田と青い街燈のともる山手通りを西へ歩く。彼は野球ばかりして落第、父親に“西洋人の学校”に転校させられていた。私は月に何度か彼を訪ねる。学校の様子を聞くと、
「男の子はやんちゃばかりだが、女なら一人いいのがいるよ。混血児でね――ガスの光で育ったような顔をしているんだ」
とたんに私はハッとしました。それこそ自分が云わねばならぬわけで、今回の事柄が何よりも自分の領分のものだということはともかくとして、私は現に、一週間ほど前に、まさしくそんな少女を見かけて、しかも前田が云った言葉とそっくりの感銘を受けたからなのです。……
どんな少女か?
「びっくりしたように見開いたまつげの長い二重まぶたの青い眼……菫のようなハイカラーさ……二つ三つ下で、紺色の服と帽子、その色合いがアーティフィシャルな顔の白さとよく調和して、たいそう品よく……」。
前田がその少女を紹介すると言う。私は、西洋人の友だちができると思うと胸がときめく。でも、友だちになって、一体何をすればいいのか、臆病になる。トアホテルの塔が見える坂道に出た時には、気持ちは沈んでいた。前田は裏道を抜けて学校に行く。大邸宅、鉄柵、板塀、細い通路、急な石段、ガス燈……、映画のシーンそっくりで、シルクハットにマントの人物が現われるような気がする。前田は、少女はピンポンをしているはずだ、と私を残して裏門から校内に行く。少女が来たらどう挨拶すればいいのか……。「びっくりしたように見開いたまつげの長い二重まぶたの青い眼……菫のようなハイカラーさ……二つ三つ下で、紺色の服と帽子、その色合いがアーティフィシャルな顔の白さとよく調和して、たいそう品よく……」。
…………
「どうしよう――元町へでも出てみようか?」
「うん」と私は頷いて一緒に歩きだしましたが、この時初めて、前田がさっきから機嫌が悪かったらしいことに気がつきました。が、私はそれをちょうどよいことに思ったのです。その前田が、別に自分を気の毒がりもしないように、自分もまた、前田をも、その他の誰をも、気の毒には思うまい……そんなことを考えて石段を下りかけた時、ちょうど正面の真黒い三角屋根の上に、そこを離れたばかりの大きな月が懸かっているのを見ました。
「まあまあ!」と私は心の中でつぶやきました。それがそんなにまんまるく、赤く、靄のために磨硝子を通したようにぼやけて、いつもRising Moonというものを感じさせる、あの遠い郊外の野で誰か自分の名を呼んでいる物があるような、奇妙なはろばろしさを起こさせたからです。が、とたん、ドン! と胸板を突かれたように、私は、このキネオラマのような月が差し昇る春なればこそ、自分はガスの光で育ったような少女といっしょにぴかぴかしたロードスターに乗って、アスファルトの上を走るのでなかったか! ということに思い当りました。何故これに気づかなかったのか? ……
口惜しさと物悲しさ、もし少女が現れていたら、こんな気持ちにはならなかっただろう。でも、少女がいたら、この月はどう見えただろう。無言で前田と迷路のような小路を抜けて広い坂道を下りた。……へんな満足と物足りなさの交叉点に立った私は、赤い月と、その下の海に浮かんだ碇泊船のケビンから洩れる灯を見くらべて、迷っていました。
(平野)