2017年9月12日火曜日

中原中也 沈黙の音楽


 佐々木幹郎 『中原中也 沈黙の音楽』 岩波新書 900円+税


著者は詩人、『新編中原中也全集』(全5巻・別巻120002004年、角川書店)責任編集委員。
 中也の最初の詩集は『山羊の歌』。死の直前、小林秀雄に託した第二詩集は『在りし日の歌』。「朝の歌」「言葉なき歌」という詩があるし、「歌」が多く登場する。音楽集団〈スルヤ〉の活動に参加したこともある。
 佐々木は、中也の自筆原稿、日記などから、推敲の様子、影響を受けた詩や哲学についての論考を読み解き、詩の創作過程を明らかにする。

《生きていた中原中也をこの手でつかむように目の前に浮かび上がらせたい》

中也の詩「雪が降つてゐる……」が1929年のノート(第一次形態)にあり、未発表のまま37年に加筆訂正(最終形)されている(詩集には入っていない)

「雪が降つてゐる、(改行、2字下げ)とほくを。」を繰り返し、後半「それから」を繰り返す。本書158~159ページ。


《……一人称以外の別の「声」が響き、詩の行が進むにしたがって、「とほくを」と「それから」が二重唱になり、三重唱になり、「声」が多重になるような効果を生み出している。最後に「喇叭」の音が響いてきても、それは一時的な響きで、無音のまま降る雪の、その沈黙の深さに吸い込まれるように、すべての音はかき消されてしまうような構造になっている。/最終形の二字下げの「とほくを」「それから」そして最後の「なほも」は、「雪」が降り積むさまであると同時に、「雪」そのものの「声」と言ってもいいだろう。同じ「声」が重なることによって、圧倒的に「雪」の無音(沈黙)が浮かび上がる。》

 最終形完成の前年、中也は愛息文也を病で亡くしている。日記帳に毛筆で、「戯歌/降る雪は/(1字下げ)いつまで降るか」と書き、大きく「」を書いた。あとのページは破られている。佐々木は中也の「明瞭な意図」と言う。

《「雪」は中原中也にとって比喩でもなんでもなかった。「雪」が宿命のように、あるいは不幸をも授ける恩寵のように中也のもとに降りてくるのは、詩のなかだけではなく、その詩を書く彼自身の生活にも及んだということ。》

詩集『在りし日の歌』の題名案は37年春までは「去年の雪」だった。他にも「過ぎゆける時」「消えゆきし時」「消えゆく跫音」なども考えられた。
その後の中也。
8月から9月にかけて『在りし日の歌』清書。
915日中也訳『ランボオ詩集』(野田書房)刊行。
16日関西日仏学館からフランス語教科書届く。
23日『在りし日の歌』「後記」執筆、15年の詩生活を「長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠くない。一寸思つてみるだけでもゾツとするほどだ」と書いた。
26日、『在りし日の歌』清書原稿を、友であり恋仇である小林秀雄に手渡す。
佐々木はふたりの「沈黙の光景」を想像する。
《愛憎に満ちた長い友情の底にある「言葉なき歌」を思う。》
 
 10月22日中也死去。

(平野)今年は中也生誕110年、没後80年。《中原中也記念館》はこちら。
http://www.chuyakan.jp/

2017年9月7日木曜日

十五歳の戦争


 西村京太郎 『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』 集英社新書 760円+税

 ミステリー作家が自伝的に戦争と戦後体験を語る。1930年生まれの作家(本名・矢島喜八郎)は陸軍幼年学校出身だった。

第一章   十五歳の戦争
第二章   私の戦後
第三章   日本人は戦争に向いていない

 昭和202月から中学生は軍需工場に動員された。食糧は不足し、空襲が激化。腹を空かした矢島少年はいろいろ考えた。19歳になれば皆兵隊にとられる、初年兵はやたら殴られるらしい、早くから兵隊になった方がトク、少年飛行兵募集の栄養補給十分・500キロカロリー多いの宣伝に惹かれるがすぐに戦場行き、陸軍幼年学校なら大将になれるかもしれない。
 310日東京大空襲、41日東京陸軍幼年学校入学。49期生で、これまでよりも人数が増えて360名。この49期生から学費免除、逆に給料月5円支給されることになった。

《私は、てっきり、エリートだから厚遇されたのだと、単純に喜んだのだが、全く違っていた。/本土決戦が近づいたので、私たちも、兵籍に入れられたということである。(中略)学生ではなく、兵士になったのである。》

 本土決戦、天皇を守る決意だったが、沖縄戦、広島、長崎……815日玉音放送、矢島少年が帰宅したのは829日。学校(兵隊)生活は5ヵ月だった。

 第二章では戦後まもなくの世相を紹介しながら、公務員生活、いろいろな仕事をしながらの懸賞小説応募生活を語る。新人賞、江戸川乱歩賞を受賞しても売れない時代が続いた。トラベルミステリーでの活躍が始まるのは乱歩賞から13年後、48歳。

 第三章は、体験から得た戦争・平和論〈日本人は戦争に向いていない〉。
 第一次世界大戦以来、戦争は巨額な戦費、戦車・航空機など大量の新兵器など国家総力戦にならざるを得ないのに、日本は精神論で作戦を立てていた。兵站(前線にいかに無事に食糧・兵器を補給するか)も真面目に考えていなかった。
 戦争に向いていない理由をまとめている。国内戦と国際戦の違いがわからない。現代戦では死ぬことより生きることが大事なのに、日本人は死に酔ってしまう。戦争は始めたら一刻も早く止まるべきなのに、日本人はだらだら続けてしまう、などなど。

《勝算なしに戦争を始めた。/敗戦が続いたら、和平を考えるべきなのに僥倖を恃んで特攻や玉砕で、いたずらに若者を死なせてしまう。/終戦を迎えたあとは、敗戦の責任を、地方(現場)に押しつけた。/戦後は、現在まで戦争はなかったが、原発事故があった。/その時も、虚偽の報告を重ね、責任を取ろうとせず、ひたすら組織を守ることに、汲々としていた。/これではとても、現代戦を戦うのは、無理だろう。/良くいえば、日本人は、平和に向いているのである。》
 
 

(平野)矢島少年はどうすれば一番トクか考えたが、指導者は最後まで精神主義だった。
 森村誠一、内田康夫、赤川次郎は新聞に投稿して、反戦・平和について持論を述べる。西村を含め皆ミステリー作家。殺人事件を扱うことは、証拠・証人など事実を論理立てて積み重ねていく作業が必要。被疑者は国家権力に拘束される。全体主義国家なら権力によって罪と罰が決められてしまうだろう。ミステリーは民主主義のもとで成長・発展すると言われるが、彼らはそのことを意識し、理解している。日本でもミステリーが発禁・絶版になった時代があった。
 西村の本名・喜八郎は当時日本一の金持ちと言われた大倉喜八郎にあやかった。神戸では「大倉山公園」の名が残る。

2017年9月4日月曜日

埴原一亟古本小説集


 『埴原一亟 古本小説集』 山本善行撰 夏葉社 2200円+税

 埴原一亟(はにはら・いちじょう、1907~1979年)は山梨県生まれ。
 私は初めて目にする名で読めなかった。戦前3度芥川賞候補になった作家。善行堂と夏葉社の発掘力を信じて読もう。

《本当に書きたいことを読者の目や編集者の目を気にすることなく、自分の気持ちだけを相手に語りかけるような書き方である。》(山本善行)

 古本や紙くずの臭い、人物たちの生活の匂いが染み出てきそうな文章。自然主義と言うのでしょう。
 
 

「翌檜(あすなろう)」は1942(昭和17)年「早稲田文学」に発表、第16回芥川賞候補作。主人公・島赤三は作家を目指しているが、屑の中から古本を探す稼業。これもセドリ。大企業が探していた鉱山の資料で大儲けしたことが忘れられず、ツブシ屋に通う。芥川龍之介のハガキを見つけたこともあるが、生活は妻の針仕事に支えられている。

……ツブシ屋と言うのは屑屋のその下で文字通りのツブシの紙屑屋で、いま一歩で釜で煮られると言う溜り場である。表紙のはがれた雑誌、古教科書、はがき、手紙、凡そ紙と名のつくものが、それぞれこの辺一帯の住民の体臭をぷんぷんと漂わせ、山と積まれている。甘酸っぱい、饐えた、黴くさい匂いが、ぷんと鼻腔を突く。赤三はそのなかに蹲り、獲物をさがす猟人の真剣さで、眼をかがやかし屑紙を丹念に撰り分けていった。そんなときの赤三の態度は悪臭など全く感じない風に背を丸くして、さんざ屑紙を撰って汚れた指先をなめなめさがすのであった。(後略)》

(平野)