2019年4月30日火曜日

漱石全集を買った日


 山本善行 清水裕也 
『古書店主とお客さんによる古本入門 漱石全集を買った日』 
夏葉社 1300円+税 
 
 
 山本善行は本好きが高じて蔵書1万冊超、家が傾き出す。新刊本屋で「善行棚」をつくってもらったり古書イベントで売り始めた。これがよく売れた。経営していた学習塾を閉め、「もう古本を売るしかない」と思った。2009年「古書善行堂」を開業した。

……自分も五十過ぎやったし、どうせなら、あとの人生は何か自分の好きなこと、本に関わる仕事がしたいと思ったなぁ。〉

 本屋は本を売る、紹介するだけではない。「元気な人たちだけでなく、思い悩む人たちにとっても、暖かい場所になれる」と言う。
 
 清水は「善行堂」のお客さん、ニックネーム「ゆずぽん」。
https://twitter.com/cmukku

〈ある日のこと、清水君から、買った本はぜんぶ残っていて、買った順番もノートに書いている、と聞いたので、わたしは、それらの本を順番通り写真にして見せて欲しい、と頼みました。(中略)……人がどのように本を読んでいくのか、どんな順番で読書の幅が広がっていくのか、知りたくて仕方がなかったのです。〉

 本書にその清水棚写真あり。
 清水は人文、科学、それにビジネス系など幅広く読んでいた。「僕自身が読書に答えを求めすぎていた」。古本にハマり出したのは、まだ最近のことだそう。

〈これははっきりとしていて、夏目漱石に出会ってからですね。二〇一四年の秋ごろです。読書は好きだったんですが、実は文学に苦手意識がありました。〉

 その漱石全集を買ったのは、神戸元町の「うみねこ堂書林」、どれから読むといいかアドバイスもあった。寝る間も惜しんで次々読んで、文学苦手意識が吹き飛ぶほど漱石に魅了された。そこから文学世界が広がる、深まる。その広がり方・深まり方が尋常ではない。山本が「エライことになってしまった古本病患者」と紹介するほど、見事な古本愛好家になってしまった。
 各地の古本屋さん紹介、用語解説、本の紹介もあり。

(平野)海文堂書店のこと(すみません拙著まで)も話してくださり、感謝感謝。

2019年4月28日日曜日

すごい言い訳!


 連休中なかよしの小学生は韓国旅行にディズニーランド。忙しい。
 PR誌『ちくま』5月号(筑摩書房)、巻頭に橋本治がいないのは寂しいが、連載はどれも楽しみ。
 4.28 北野坂インフィオラータ(花と緑のイベント)に古本屋さん・愛書家が出店する「百窓市(ひゃくそういち)」、29日まで。拙著を一押しにしてくださり、感謝感謝。京都善行堂・山本さんとの対談本『漱石全集を買った日』(夏葉社)を出したばかりの清水さん(ゆずぽん)さんが来場。後日紹介。
 
 中川越 『すごい言い訳! 二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石』 新潮社 1600円+税

 作家の言い訳というと、まず原稿遅れが思い浮かぶ。本書では、恋、金、無作法を詫びる、依頼を断る、失態を乗り切る、なども。
 一般人でも、切羽詰まったとき、また少しでもいい人と思ってもらいたいとき、言い訳めいたことを口にしてしまう。ホラをふくし、ウソもつく、責任を回避したり他人のせいにしたり、保険をかけ、ずる賢く、逃げようとする。
「記憶にない」は「言い訳界の横綱」だそう。

……まわしの色は玉虫色で、得意技は卑怯なネコだまし。「記憶にない」ことにしてしまえば、その事実があったかどうかについては、何も答えずにすむので、後で事実とわかっても責めは受けません。(後略)〉

本書は、〈……言い訳は言い方次第で、味わい深いものに変化するのも事実です。/その実例を文豪たちに求めました。彼らの手紙のなかに見受けられる奇想天外、痛快無比、空前絶後の言い訳を〉紹介する。イメージとは異なる文豪の素顔と文章の魅力が現れる。読書案内にもなる。

芥川龍之介の「二股疑惑」とは、フィアンセ文さんがいるところに、夏目漱石長女との結婚噂話が持ち上がったこと。文さんに手紙を書いた。
「夏目さんの方は向うでこっちを何とも思っていない如く、こっちも向うを何とも思っていません……僕は文ちゃんと約束があったから夏目さんのを断るとか何とか云うのではありません 約束がなくっても、断るのです」
 さらに、
「神様の前へ出ても恥ずかしくはありません (中略)死さえも愛の前にはかないません」
 と、疑惑を打ち消す。フィアンセと無事に結婚できた。
 芥川の箴言、
「言行一致の美名を得る為にはまず自己弁護に長じなければならぬ」(『侏儒の言葉』)

 他に、メルヘンチック白秋、謝罪プレー谷崎、恋のモンスター林芙美子、ビッグマウス菊池寛ら。裁判所の出頭要請を断る猛者もいる。
 定番の原稿依頼・督促では、相手を傷つけない、詩的かつ美文、挑発あるいは同情、信・疑、意味も意図不明など。凡人にはとてもマネできない言い訳の数々。

(平野)反省、謝るより言い訳している自分が見える。

2019年4月23日火曜日

箱の中の天皇


 PR誌『本』5月号(講談社)。原武史「鉄道ひとつばなし」最終回「元号と駅名」。280回続いた名物連載、平成とともに終了。前回は「現天皇と現皇后と鉄道」だった。水原紫苑「百人一首うたものがたり」、周防内侍の「春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)に かひなく立たむ名こそ惜しけれ」の解説で、塚本邦雄の本歌取りを紹介。「春の夜の夢ばかりなる枕頭に あっあかねさす召集令狀」、平成元年の歌。そんなことが実現せぬよう

 赤坂真理 『箱の中の天皇』 河出書房新社 1400円+税


 天皇をめぐる幻想譚。憲法原案の英語表現他、英語語源・文法も考慮にいれ、日本近現代史と日米関係を問う。

 わたし(まり)は病院で傾聴ボランティアをしている。担当している道子さんは天草の生まれ水俣育ちの老女(あの人?)。わたしは道子さんに、天皇とは何か、と訊ねる。道子さんは天子様に会ったことがある、と言う。道子さんに紅をさしてあげようとして、ポケットの二つの「箱」に触れた。この謎の「箱」のことも訊かねばならない。道子さんはテレビに映る天皇(退位希望を表明)の眉間に、紅をさせ、と言う。

 わたしが「箱」を手に入れたのはその一年前、横浜。マッカーサーと昭和天皇が現われ、二人は抱擁。マッカーサーがパイプの煙を吸うと天皇は消えた。マッカーサーは小さな箱に息を吹き込み封印する所作をした。

横浜の伝説の娼婦メアリが、自分は皇后で天皇は小さな箱の中、と言う。わたしはその「箱」を託された。メアリは、天皇は人形で、たま(、、)を抜いておられる、と。

〈「いろいろな人が上手に操っておられますし、天皇とはもともとそういうものです。それにあぁた、みなさん、こう言っちゃナンですけどもね、陛下を生身のかただと思っていないでしょう? 生身と思ったら、あんなに何でも押し付けられます? 『押しつけ憲法』といいますけれどね、今に始まったことじゃないんです。陛下にとっては、どれも押しつけ憲法。ぜんぶ陛下に、押しつけ憲法。利用するときだけ、木偶(でく)の坊を利用するように、人間であることを利用するのですよ」

 メアリとなったわたしはマッカーサーの箱と偽物の箱をすり替える。

 圧巻は、わたしがマッカーサー、日本国憲法を創ったGHQ民政局とそれに反対した参謀第2部人員の霊たちと共に、退位のメッセージを述べる天皇と討論する場面、「国産み会議」。天皇の額には紅のしるしがあった。「箱」の中に何があるのか、空っぽなのか。

戦後処理、戦争責任、新憲法下の象徴、わたしはこれらを天皇が「象徴化」して実践してきたのではないか、と思う。

〈戦争の傷をめぐる世界の旅をすること。傷ついた人びとの前で祈ること。弱い人と共に在ること、弱った人、傷ついた人の手を取ること、助け合おうということ。混乱にあって、我を失わずにいようと励ますこと。天皇はそれを言葉で言うことができなかった。憲法で制限された存在だからです。我が国において、憲法を、国家権力を抑制するためにあると本気(、、)()信じている人は少ない。けれど、この天皇はそれを「体現」ようとしたのではないか。日本の軍隊が傷つけた人々の地も慰問した。言いたいことを、言えない状態で。その孤独な戦いを思います。そのことに、今、感動をおぼえます。/そして、天皇が日本の象徴であり、国民の象徴であるなら、行動を問われているのは国民なのです。〉

 わたしの手に、箱がひとつ、残る。

〈そうか。こういう象徴でも持っていなければ、わたしもまた、忘れてしまうのか。それは「(くう)」の重さ。軽く、とてつもなく重い。〉

(平野)ベテラン作家も天皇をテーマに小説を連載中と聞く。もっと考えなければ。パレードを出迎えてキャーキャー言っているだけでは、天皇も国民も利用されるだけだ。

2019年4月21日日曜日

明恵の夢と高山寺


 手帳の予定に、「21日(日)大阪、明恵」とある。「あきえって、誰や?」、自分でボケてつっこむヂヂひとり漫才。
「きょうと~とがのおこうざんじ~」(永六輔作詞)と歌いながら四ツ橋筋を歩く、音曲漫才。

「明恵の夢と高山寺」(中之島香雪美術館、56日まで)。鳥獣戯画ほか、高山寺の国宝・文化財と香雪美術館・村山コレクションを展示。
 
 

 行きの電車内で読み始めたのは、赤坂真理『箱の中の天皇』(河出書房新社)。『東京プリズン』のときも思った。重いテーマをよくぞ、強い。紹介は後日。

 ジュンク堂書店堂島本店、自分の文庫と孫に子どもの日プレゼント絵本。なんか、ウキウキ。

(平野)
 明恵は夢を克明に記録した。夢を仏からのメッセージと受け取った。
 未明、私が見た夢は、会社でIT化についていけず、ストレスで長時間トイレにこもり、上司に叱られて減給、同僚に心配される、というものだった。まだ働いていたら、あり得る。

2019年4月20日土曜日

文豪 お墓まいり記


PR誌は『熱風(ジブリ)』4月号、特集「子どもと向き合う」(スタジオジブリ)。ある公立中学校の校長インタビュー。校則なし(心得3つ)、チャイムなし、制服はあるけど服装自由、多様性を重んじる。発達障害や識字障害のある子、心に問題をかかえている子、外国の子、みんなが一緒に学べる教育(インクルーシブ教育)を実践する。校長はじめ教員の努力、保護者の理解、生徒たちの自主性、それに先生と生徒の信頼関係。学力はどうなのかなんて、余計な心配。
 
 

新聞訃報。419日、渡辺千萬子さん逝去、89歳。日本画家・橋本関雪の孫で、谷崎潤一郎の義理の息子の嫁(ちょい複雑)。『老人瘋癲日記』颯子のモデル。

その谷崎と永井荷風の敗戦前日エピソードから始まる本。
 山崎ナオコーラ 『文豪 お墓まいり記』 文藝春秋 
1550円+税



 文豪たち(画人一人)26人のお墓や縁の場所を訪ね歩き、作家と作品への思いを語る。
 中島敦(享年33歳)の墓をおまいり中、山崎は中島が自らの死を予感した文章(『かめれおん日記』)から、父の死の瞬間を思い出す。

〈父は、私がひげを剃ってあげているときに死んだ。私には、その瞬間がわからなかった。亡くなったとき、部屋には私しかいなかったので、そのことにずっしりと重みを感じて、今でもたびたび考え込んでしまう。その瞬間、というのがどういうものなのか、その瞬間というものを大事にすべきなのか。それとも、どうでもいいこととして扱うべきなのか。今は真っ直ぐに伸びていくように感じられている時間軸が、死の瞬間には、まったく違うものに変わるのかもしれない。〉

花をいけ、お供えをし、線香をあげ、手を合わせる。作品の感想やお礼を伝えるそうだ。時には掃除(ご遺族に失礼のないよう)。だいたい夫がいっしょ、ときどき母上、たまに一人。夫妻なら散歩、デートの一環。カツ丼が食べたくて、ついで(?)に墓まいりしたこともある。私からは誰のお墓とバラさない。路面電車に乗ったときのアンケートで、利用の目的に、妻は「仕事」と選び、夫は「レジャー」を選ぶ。おまいり前に腹ごしらえし、終了後は精進落とし(?)の肉食もする。
 でもね、夫妻にはつらいできごともあった。そのご供養も。

 
カバーイラスト 暮「永井荷風と谷崎潤一郎」
本文イラスト 山崎ナオコーラ

(平野)夫妻は谷崎倚松庵訪問のため神戸にも。ちょうど海文堂書店閉店直前、わざわざ来店してくださった。ナオコーラ色紙、私が大事に保管している……はず。

2019年4月19日金曜日

はるかのひまわり

 418日、家事と昼ご飯早めにすませて、灘の兵庫県立美術館、「没後130年 河鍋暁斎 鬼才!kyousai!」「不思議の国のアリス展」。
「暁斎」は埼玉県蕨市の「河鍋暁斎記念美術館」所蔵品を中心に(ドイツからも出展)200点展示。一昨年京都で開催した「これぞ暁斎!」ではイギリス人個人コレクション180点余りが公開され、圧倒された。海外に買われていった作品がほんまに多いのだ、とつくづく思う。

「アリス」は若者多く、クイズイベントもあり。ヂヂは古い映画フィルムや写真で十分楽しい。
 

 

 
 灘なら本屋はワールドエンズ・ガーデン。新刊、加藤いつか『はるかのひまわり』(苦楽堂)。今上天皇が今年の歌会始で詠まれた歌「ひまわり」。古本、中平邦彦『パルモア病院日記』(新潮文庫)。単行本を持っているが、解説が高田宏。妻も子たち、孫もここでお世話になっている。
 店主から、本紹介のブログを始めたと聞いたので、勝手に紹介。


 加藤いつか 
『増補新版 はるかのひまわり 震災で妹を亡くした姉が綴る残された者たちの再生の記録』 苦楽堂 1500円+税


 2004年刊、ふきのとう書房『はるかのひまわり』を加筆改稿。
 いつかさんは1995年の阪神淡路大震災で妹はるかさんを亡くした。いつか15歳、はるか11歳。家族の一人が突然いなくなるということの現実。予期しない別れによって、家族一人一人に大きな空虚が生まれる。家族間に会話がなくなる。それぞれが精神を崩し、身体を病み、父母とも入院。いつかは高校に進むが、精神科に通い、学校に行けなくなり、自傷行為を繰り返す。
 家族が住んでいた場所は更地になった。夏、そこにひまわりの花が咲いた。隣人が小鳥を飼っていて、餌の種をはるかもあげていた。その種から咲いた。教えてくれたのは全壊した家からはるかと母を助け出してくれた藤野さん。

〈「ひまわりが一輪咲いている」と聞いてからしばらくして、今度は「大きなひまわりの花がたくさん咲いている」と聞いた。正直「ドキッ」とした。目で見てみたいと思って、気持ちの整理をつけてから、数日後にひまわりの咲いた場所に行ってみた。〉

そこに行くことは妹の死を思い出すこと。しかし、ひまわりを見たら不安は消え、なんで咲くのか、不思議な気持ちになった。妹を思い、涙を流した。その後、足を運ばなかった。
 961月、いつかが作った短歌が「現代学生百人一首」に選ばれた。高校の先生が応募してくれた。
「震災の 本を見るたび 母が泣く 妹の名がのる 死者の一覧」

短歌を見た他県の先生が金子みすゞの本を送ってくれ、手紙のやり取りをするようになった。
 
 藤野さんや地域の人がひまわりの種を保存して、あちこちにまいて花を咲かせていた。それでも、いつかは種まきに参加しなかった。
 2001年、いつかは神戸市の復興記念事業にかかわり、翌年種まきに参加。震災直後からボランティア活動の中心的存在だった俳優の堀内正美(本書解説担当)と出会う。NPO法人「1.17希望の灯り」の発起人、理事になる。ひまわりウォークや語り部などの活動を始めた。多くの人に励まされ、自分とはまたちがう不幸な境遇の人の体験を知る。03年、NHK「青春メッセージ03」に出場して、語った。

……今日、成人式を迎えるはずだった妹・はるかに「たくさんの出会いをありがとう」といいたいです。〉

「はるかのひまわり」は全国の災害被災地に広がり、花を咲かせる。種はニューヨークにも渡った。

 今年の歌会始、天皇の歌。
「贈られしひまわりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」
 御所にも「はるかのひまわり」が咲くそうだ。

(平野)辛く悲しい体験をして、立ち上がることは難しい。本人の奮起も必要だが、周りの人たちの支え、新たな出会いが力になる。


2019年4月18日木曜日

平成の終焉


通勤電車内は『図書』4月号。
横尾忠則、「セザンヌは自然を円筒、円錐、球で表現すべきだと主張したが、わが北斎の「富嶽三十六景」の絵を嘗るように画面の隅々までながめてもらいたい。やがて画面の至るところから、○△□の形が「私はここよ」と声を揃えて自己主張をし始めてくるのに気づく」。
は富士、は人物の頭の笠や水車や桶、は鳥居や屋根、壁、板など、だそうだ。

休憩時間読書は、原武史『平成の終焉――退位と天皇・皇后』(岩波新書)
 

著者は新聞記者を経て政治思想史の研究者、著書に『昭和天皇』(岩波新書)、『大正天皇』(朝日文庫)など。現在、放送大学教授。鉄道や戦後ライフスタイルの研究も。

今上天皇・皇后が確立した平成の天皇制。その特徴と「平成」後について考える。
天皇が直接国民に語りかけ、全国を皇后と二人で訪ね歩き国民と同じ目線で話す。皇后の存在が過去よりも大きい。二人は「象徴」の覚悟をもって行動してきた。生前退位の決意は憲法のもと天皇と国政の関係ギリギリの選択だろう。さまざま制約のなか、「全身全霊ももって」象徴の役目を果たしている。災害被災地での激励や戦争慰霊の真摯な祈りの姿に国民は感動する。皇太子時代に火炎瓶が投げられたなんて信じられないくらい。天皇が節目で発せられる天皇のメッセージに、ごもっともと納得する。護憲派さえ頼りにしている面がある。それは情けない。メディアも大きく報道する。
メッセージが「権威」になってしまわないか。逆にその「権威」を戦前のような軍事・権力・支配のシンボルにしようという輩がいないか。新元号や退位・即位を政治イベントにしようという者もいる。戦争を体験していない天皇・皇后が即位する。全く新しい皇室が誕生する。
 
〈平成は二〇一九年四月三〇日で終わります。けれどもそれは、明治、大正、昭和とは異なり、天皇自身が生涯を終えることを意味しません。この点では元号が変わっても、「平成」は生き続けるとも言えるのです。おそらく、平成を振り返るさまざまな企画は、上皇明仁が亡くなったときにもまた出てくるでしょう。「平成」の影が簡単に消え去ることはないのです。

(平野)

2019年4月16日火曜日

ビッグイシューなど


 本体の《ほんまにWEB》がリニューアルで、当ブログも少々変えなければ、と思いつつ、新しいことはできないが、ヂヂ日記を入れながら、本・雑誌を紹介していこうと思う。

 
 午前中、大倉山図書館。元町原稿で必要な菊田一夫資料を探すが、見つけられない。菊田『がしんたれ』連載『週刊朝日』バックナンバーを出してもらう。挿絵は小磯良平。

 午後、元町駅前で『ビッグイシュー』。このところタイミングが合わず、2号まとめて購入。




 

 家事雑用すませて元町映画館、「金子文子と朴烈(パクヨル)」。主役二人、凛々しい。パンフレット寄稿者、豪華。

http://www.fumiko-yeol.com/

 


 帰宅して、晩ご飯用意。娘と孫から家人にライン電話、ヂヂも後ろから参入。なんでこんなにうれしいのか、ヂヂバカ!

 5月予定(?)『ほんまに』原稿をゴロウちゃんに送信。

(平野)

2019年4月13日土曜日

世界史の実験


 柄谷行人 『世界史の実験』 岩波新書 780円+税

 2011年の東北大震災のあと、柄谷は柳田国男について再考をはじめた。

……私は大勢の死者が出たことに震撼させられた。それで、柳田が第二次大戦末期に書いた『先祖の話』を読み返したのです。私は学生時代にこれを読んで感銘を受けました。じつは私には、学徒動員によってルソン島で戦死した叔父がいました。私に彼の記憶はないのですが、家に飾られていた彼が角帽をかぶり馬に載った写真を毎日眺めながら育ったのです。柳田の本を読んだとき、彼の霊はどうなったのだろうか、と考えた。〉

 19454月から柳田は『先祖の話』を執筆。人は死んで「荒みたま」になり、子孫の供養や祀りを受けて浄化され「御霊(みたま)」になり、一定時間が経つと一つの御霊=神(氏神、祖霊)になり、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇り、子孫の家の繁盛を見守る。生と死の世界は往来自由、祖霊は盆・正月に家に招かれ共食し交流する存在となる。

……すべての霊が祖霊集団に融けこんでしまっていると同時に、それぞれが個別的に存在する。〉

柳田は既に敗戦を予期していただろう。「新たな社会組織を考え出されなければならぬ」と書いている。柄谷はこの「社会組織」を、「生者と死者、あるいは人間と神の関係をふくむもの」で、戦死者の弔いのことを考えていた、と指摘する。

「少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒のいう無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけには行くまいと思う。もちろん国と府県とには(はれ)祭場があり、鎮まるべきはもうけられてあるが、には、家々骨肉依る無視することができない」柳田先祖

柳田は、彼らを弔うため先祖にするため彼らの養子になること、を提案する。

〈さらに、柳田がいう「新たな社会組織」は、このような戦争を二度と起こさないようなものにすることを意味しています。〉

 第一次世界大戦後のロシア革命と国際連盟は社会を変える「実験」だった。マルクスの社会革命、カントの永久平和の「実験」。日本の大正デモクラシーも歴史の「実験」といえる。もうひとつ、エスペラント運動も。柳田は民俗学者として、官僚として、新聞記者として、郷土研究(世界人類史を見るためのベース)、国際連盟委任統治委員、エスペラント語、普通選挙運動など、さまざまな「実験」にかかわった。戦争の時代になり、「実験」は消滅してしまった。しかし、戦後再開、枢密院顧問として憲法制定の審議に加わる。

〈ここで重要なのは、新憲法、特に九条が一九二八年のパリ不戦条約に由来するものだということです。この条約は、国際連盟と同様に、カント的な理念にもとづいて作られた。〉

〈……柳田が九条について言及したという資料はありませんが、彼が「新たな社会組織」を考える上で、戦争における死者を念頭においていたのは確実です。彼にとって、憲法九条は、過去および未来の死者にかかわるものであったはずです。〉

 柳田は戦死者を何よりも大事と考え、二度と戦死者を出さない「社会組織」を作ることを考えた。柄谷は「それが憲法九条です」と断言する。

(平野)

2019年4月11日木曜日

若山牧水 さびしかなし


 田村志津枝 『若山牧水 さびしかなし』 晶文社 2003年刊

 図書館本。

 著者は1944年台湾生まれ、長野県育ち、映画研究者でノンフィクション作家。著書、『悲情城市の人びと 台湾と日本のうた』、『台湾人と日本人 基隆中学「Fマン事件」』(共に晶文社)など。

 1910(明治43)年秋、若山牧水が信州小諸の病院に約2ヵ月滞在した。著者の祖父が開業する任命堂田村病院、まだ著者の父が生まれる前のこと。著者は祖母や父から牧水エピソードを聞かされて育った。酔っ払い、酒の失敗、使用人に好かれたことなど。

……父からほんとうにたくさんの牧水にまつわる話を聞いた。そしてそれをくりかえし語りあうことで、私は父とすごす最後の時間をなんとか埋めた。父には風流なところはほとんどなく、歌などにとくに興味があったとも思えない。この家に暮らしたあいだに牧水が残したエピソードも、酒好きの若者らしく無軌道もいいところで、誇らしく語れるものなどあまりない。けれど牧水には、父のような人をも惹きつけるところがあったように思われる。〉

牧水が恋の苦しみから酒浸りになり悪所通いの果てに感染した病気、その治療だ。
 担当したのは岩崎樫郎という若い医師。地元の歌の会に参加していて、牧水に手紙で添削を願った縁。岩崎は牧水の体面を慮って、院長に紹介もせず治療にあたったようだ。院長は牧水が歌人であることを知らず、山のように届く郵便物(雑誌編集部から投稿歌が転送されてくる)から、社会主義者が紛れ込んだのかと勘違いした。
 食客といえば聞こえはいいが、居候である。衣食住どころか、岩崎に借金までしている。治療費もどうだか。有名になりかけていた頃で、貧乏どん底だった。それでも牧水のまわりには地元の若い文化人たちが集まってくる。
 小諸を離れても牧水と岩崎の交流は手紙で続いた。旅の途中での再会を牧水が随筆に残していて、このとき小諸で出会った若者たち2名が肺病で亡くなったことを知らされる。22(大正11)年、岩崎も独立開業してすぐに亡くなった。

25(大正14)年、牧水は講演と揮毫の旅行で小諸を訪れ、田村院長に挨拶した。
「小諸なる君が二階ゆながめたる浅間のすがた忘られぬかも」
 二階の部屋で岩崎と語りあった。窓からは浅間山、千曲川、日本アルプスが眺められた。

……年若く貧しかった牧水が、恋愛に苦しみ心身ともにくたびれはてて身をよせたのが、わたしの祖父の屋敷のなかの一室だった。その偶然のできごとが、九十年あまりのちの私に、物語をたどりなおしてみるという喜びをもたらした。〉

(平野)牧水の愛しい人も小諸に来た。男女の縺れは金の話になっていた。