2017年10月28日土曜日

うそつき


 野坂暘子 『うそつき My Liar 夫・野坂昭如との53年』 新潮社 1500円+税
 
 

 夜でも黒眼鏡早口酔っ払いの変なおじさんはコマーシャルソング作詞家、30歳。現役タカラジェンヌ、19歳。知人の紹介で交際が始まった。変なおじさんは東京からたびたび宝塚にやって来た。差し入れはダンボールいっぱいの即席ラーメン。六甲山頂の岩の上でプロポーズ。その時、もう嘘があった。山上からの景色を説明しながら、

《突然野坂さんが言う。/「ぼく、マツゲが無いんです、見てくれますか?」えっ? マツゲが無いって……怖い! 野坂さんはいつも外したことのない黒眼鏡をはずす。一瞬緊張が走る。/「アハハハ、マツゲあった!」/私は岩の上で笑いころげる。/野坂さんは真面目な顔をして私にプロポーズをした。/私は何故か急に涙が溢れて泣き笑いをした。》

 夫人が作家との思い出と共に、彼の素顔を語る。

《彼はとてもお行儀のいい人で、言葉づかいがまず綺麗。これは亡くなるその日まで崩れることがなかった。私は呼びすてにされたことは一度も無く、一般によく聞く、オイ、お前、風呂、お茶、云々は例えば「あなた、お茶を一杯淹れて下さい」という具合。結婚後しばらくは、何かぎこちなく、他人行儀の感もあったしオジサンくさくもあった。》

 野坂は軽佻浮薄、不良、目立ちたがり屋と思われがち。その反面、戦争をテーマに小説を書き、食糧問題に取り組んだ。

《気が小さい、気が弱い、ついでに僻み嫉み妬み、これはぼくのキャッチコピー。努力、忍耐、根性は到底似合わない、いつか人生のどこかで辻褄が合えばそれでいい、と私に語っていたあなた。酒の力を借りながらその都度いろいろなものを捨ててきたとも。浴びるように流し込んでいたアルコールも黒い眼鏡も隠れ蓑。嘘ばかりついていたら何が本当やら、気づけば狼少年が狼爺いになって本当に逝ってしまった。(後略)》

 野坂は嘘つきでアル中、ついに脳梗塞で倒れる。暘子は介護中も旅行に連れ出したり、原稿聞き書きしたり、それを楽しんでいた。故郷神戸にも連れて行きたかった。野坂本人は震災復興後の神戸を嘆いていたようだが。

他人事ながら退屈しない家庭生活だっただろう。本書には笑ってしまうエピソードがたくさんある。ヒモの話とか前世の話とか。でもね、生い立ちや戦争体験の話はやはり悲しい。すべてひっくるめて、〈野坂昭如〉。

(平野)『エロ事師』にも戦争の影がある。
〈ほんまにWEB》連載3本、更新しています。

2017年10月18日水曜日

南蛮美術総目録

 『南蛮美術総目録』 市立神戸美術館 1955

『みなと元町タウンニュース』連載原稿のために図書館で借りた本。A5判、375ページ、美術目録なのに図版なし。紙は藁半紙。

 神戸兵庫の大地主で池長孟(18911955)という人がいた。先祖代々の財産を南蛮美術品蒐集につぎ込み、美術館を建て、公開した。神戸の年配の方なら葺合区熊内町にあった〈南蛮美術館〉を覚えておられるだろう。

池長は、植物学者・牧野富太郎を援助し、地元の考古学者の資料を保存するなど、芸術、文化を愛し、高貴なる者の義務を心得ていた人。戦災から美術品を守ったが、戦後莫大な税金を課せられ、コレクション散逸の危機に陥った。神戸市に委譲を決意、蒐集品を整理・分類して目録を作成した。51年、池長美術館は神戸市立美術館になる。現在南蛮美術品は市立博物館に収蔵されている。重要文化財がたくさんある。

表紙の絵は南蛮船。
 

 

 数年前に消えた本屋の書皮を思い出す。もう一枚あったが見つからない。
 
(平野)
『みなと元町タウンニュース』は元町商店街あちこちの設置ラックで配布しています。

 

2017年10月17日火曜日

昭和文学盛衰史


 高見順 『昭和文学盛衰史』 文春文庫 1987年刊

1956年から57年『文學界』連載、単行本(全2巻)は58年文藝春秋新社から。



30年前の文庫、よく焼けている。

 高見順(19071965)は福井県生まれ、作家・詩人。ダダイズムなど前衛芸術運動、社会主義思想の影響を受け、プロレタリア作家となる。治安維持法で検挙され転向、従軍。戦後は病を抱えながら作品を発表し、日本ペンクラブの活動や日本近代文学館設立に尽力した。70年、高見の遺志により詩人に贈る「高見順賞」が設立された。
 本書では高見自身の足跡と共に昭和文学史を回顧。
 大正末から昭和初め、全国で多くの文学同人雑誌が発行されていた。作家も既存の雑誌に発表するのではなく、友と同人雑誌を始めた。高見は島木赤彦の歌を紹介して、若き日の文学への思いを伝える。

《 我等の道つひに寂しと思ふゆゑにいよいよますます友を恃(たの)めり
  はじめより寂しきゆゑに相恃む心をもてり然(し)か思はぬか》

文学の友。

《この世に生を享(う)けて、ともに、文学の道を歩んで行く友である。》

高見は「寂しと思う心」に郷愁を覚えるが、礼讃するのではない。「偉大な文学こそ、我等の道ついに寂しと思う、強い孤独のなかから生まれる」と考える。
 しかし、資本主義社会では芸術・文学は商品である。プロレタリア文学が「文学を商品としてしか見ない資本主義社会の悪を衝いた」。
 同人たちが対立、抗争、分裂する。

《恃む友、相恃む文学の友と、いわゆるイデオロギーの相違ということで喧嘩別れをせねばならなかった。昨日までの友を今日は敵と呼ぶに至った。これは喜劇であったろうか。悲劇であったろうか。》
 プロレタリア文学の台頭は昭和文学史の重大事項だが、こちらも内部で対立、分裂が起こる。

(平野)

2017年10月12日木曜日

幕末明治人物誌


 橋川文三 『幕末明治人物誌』 中公文庫 1000円+税

解説・渡辺京二

 橋川文三(はしかわ・ぶんそう、192283)は政治学者、著書に『日本浪曼派批判序説』(未來社)など多数。
 
 

明治という時代を見ることなく倒れた人、権力から外れた人、思想家、軍人、文化人、政治家、結社主宰者ら。歴史の本流ではなく、どちらかと言うと敗者の側にいる人物たちを取り上げた論文集。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、後藤象二郎、高山樗牛、乃木希典、岡倉天心、徳富蘆花、内村鑑三、小泉三申、頭山満。

《歴史は主役だけで動くものではなく、蔭には無数の脇役の働きがある。後藤象二郎は準主役であっても、いまの人には耳遠い存在だろうし、小泉三申も知る人ぞ知るにせよ、いまとなっては無名に等しかろう。松陰や龍馬のような超有名人にまじって、今日忘れられたような人物に光が当っていることも、本書の今日的有用性ということになろう。》(渡辺)

 西郷隆盛は維新の英雄として現在も人気がある。しかし、歴史家の評価は芳しくない。「征韓論」が侵略思想の源流とみなされること、大久保利通らに比べて近代国家建設に貢献していないこと、を理由にされる。

 西郷下野、西南戦争は、明治新政府が西郷の理想と離れた結果という意見も多い。

《しかしそれなら西郷が維新にいかなる夢を託していたかといえば、直接にはわかりにくいところが多い。ただもし幾分の飛躍をおそれずにいえば、西郷はそこにもっとより(、、)徹底した革命を、もっとより(、、)多くの自由と平等と文明(、、)をさえ夢想していたかもしれないのである。》

(平野)

2017年10月3日火曜日

幕末  非命の維新者

 村上一郎 『幕末 非命の維新者』 中公文庫 1000円+税   

解説・渡辺京二



初版は1968年角川新書。

村上一郎(192075)、評論家、小説家、歌人。三島由紀夫事件後、自刃。本書には日本浪曼派・保田與重郎との対談も収録されていて、思想的には〈右〉の人だろうが、簡単に言えない。渡辺の紹介では、「英国流市民主義思想」「土着的ナショナリズム」「農本主義」のことばが並ぶ。戦後、村上自身が指針に、「米国的資本主義勢力駆逐」「共産主義革命」と書いている。渡辺は村上の思想を、《……日本の農村社会の生んだ精神の高潔、生の哀れを知る情緒のゆたかさ、仁義の二字に表わされる共同的正義感、……》と表現する。

書名にある「非命」とは、「天命でないこと。特に、意外な災難で死ぬこと」(『広辞苑』)。
 明治維新の後、国を指導した元勲たちのことではなく、志半ばで倒れた〈草莽〉9人の評伝。村上は、明治維新を文化・文政(1800年代初め)から始まると考える。登場するのは、大塩平八郎、橋本左内、藤田三代(幽谷、東湖、小四郎)、真木和泉守、三人の詩人(佐久良東雄、伴林光平、雲井竜雄)。教科書に出てくる名もあれば、初めて目にする名もある。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛(村上は「最大最高の維新者」と言う)は研究書が多いこともあり、本書では取り上げていない。収めきれなかった人たちもいる。

……維新者は、本質的に、涙もろい詩人なのである。維新者は、また本質的には浪人であり廟堂に出仕して改革の青写真を引くよりは、人間が人間に成るというとき、そのような設計図は役にたたぬことを知っているのである。維新者は、若々しい情熱を政治にそそぐこと、人後に落なかった。が、とど時務・情勢論の非人間性を知る者でもあった。だから、岩倉具視や大久保利通のようにはあり得なかった。友を失い、恋人を捨てて、やむなく政治に身を挺することはあっても、そのむなしさを知っているのである。彼は、時にニイチェのごとく哄笑する。が、その時も、こころは涙にぬれているのである。》

〈維新者〉の一基準として、村上は大塩平八郎の乱(1837年、天保8年)についての評価を挙げる。大塩は大阪奉行所与力を辞任して学者生活だった。大飢饉なのに、大阪奉行は将軍代替わり式典費用のため米を江戸に回す。豪商は米の値をつり上げる。大塩は困窮する庶民救済を訴え、幕政の腐敗を糾弾し、乱を起こす。

《たしかに、大塩の乱ははかない行動であった。そして、その思想は尊幕の範囲を出なかった。しかし、命を賭けてする行動というものは、かならず何かを残す。大塩の哀れな行動が、藤田東湖や吉田松陰に何を残したかは、それこそ、すこぶる見るものありであった。》

 大塩の乱で町民・農民たちは焼け出されたにもかかわらず、彼らによって大塩の思い=「社会正義の怨念」が語り伝えられた。

《ところが、大塩をほとんど評価しなかった明治維新の成功者たちはどうであろう。彼らが、大塩の乱の結果のはかなさを笑ったのは、彼らが時務情勢しか解しなかった者であることを、いみじくも示している。彼らのほとんどが、大塩、東湖、松陰のもっていた社会正義の念を置き忘れてしまったのである。(後略)》

(平野)「非命」「こころは涙にぬれている」、尊いことだろう。でも、やっぱり生きていてほしい。