2015年9月29日火曜日

青玉獅子香炉 柊の館


 陳舜臣 「青玉獅子香炉」 「柊の館」 

図書館で借りた『陳舜臣全集』第19巻と第23巻から。

「青玉獅子香炉」 初出「別冊文藝春秋」19689月号、69年文藝春秋から単行本、同年直木賞受賞。
 美術品の真贋をテーマにした作品。殺人事件は起こらない。
1912年、辛亥革命で宣統帝(愛新覚羅溥儀)は退位したが、紫禁城内に住むことは許されていた。軍閥が割拠し不安定な政治状況のなか、24年溥儀は城を去る。翌25年、城内の宝物を管理保管・公開を目的とする博物館「故宮博物院」が設立される。
 中華民国成立後、宮廷官僚たちは家宝を手放す。城の宝物を秘かに売る者もいた。溥儀から宝物の点検命令が出て、発覚を恐れた宦官が職人・王に贋作を依頼する。王はとっておきの玉石で作ることを約束するが、脳溢血で倒れ、弟子の李に任せる。王の亡き息子の妻・素英の励ましで、李は「開眼」。見事な「青玉獅子香炉」が完成する。李は素英の同僚の紹介で故宮の宝物の整理をする委員会に勤める。日中戦争激化に伴い、宝物は疎開、中国各地を放浪。李も同行するが、自分の香炉を見ることはできない、香炉のことしか考えられない。香炉が入っている荷に印をつけ、常に安全な場所に運ばれるようにする。戦争が終わっても国共内戦。49年、ついに宝物は台湾に送られる。いよいよ箱が開かれ、17年ぶりの対面。しかし、香炉は別の模造品とすり替えられていた。いつ、どこで、誰が? 自らが作った贋作と行動を共にしてきた李。香炉を再び手に取ることができるのか?

「柊の館」 初出「婦人画報」1971年~72年、単行本は73年講談社。
 神戸北野町、イギリスの船会社が宿舎に使っている異人館屋敷。敷地内に「とんがり屋敷」と呼ばれる副支配人の住まい、独身者のための古い建物、メイドルームと台所を兼ねた平屋がある。庭には柊の木が植えられている。
 メイドの責任者・富子が若いメイドたちに昔話をする。1925(大正14)年に富子は17歳、同郷のメイドの紹介で奉公に来た。
 宿舎内や近所で暴力事件や殺人事件が起きる。解決した事件もあれば未解決もある。新任の支配人が披露するユーモラスな話もある。イギリス人社員が情報将校だったこと、逆に日本側のスパイが宿舎に潜入していたことも。最後に、未解決だった殺人事件の真相が明かされる。
 
 両作品とも戦争が大きな影を落としている。

(平野)

 ヨソサマのイベント

 成田一徹切り絵展今よみがえる港町神戸の原風景
9.2910.12
神戸市役所1号館2階市民ギャラリー
http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2015/09/20150924073001.html

2015年9月24日木曜日

死の淵より


 高見順 『死の淵より』 講談社文芸文庫 19932月刊

 詩集。単行本は196410月刊。第17回野間文芸賞受賞。

 年譜を見る。高見は、4639歳のとき胃潰瘍で倒れ、48年胸部疾患で入院・転地療養、52年ノイローゼ、63年食道がん手術、64年(本書単行本刊)再入院・手術。653月手術、8月死去。この間、小説、評論、詩を発表し、数々の文学賞を受けた。ペンクラブ代表、政治運動、芥川賞選考委員、日本近代文学館設立……、走り続けてきた。

《食道ガンの手術は去年の十月九日のことだから早くも八ヵ月たった。この八ヵ月の間に私が書きえたもの、これがすべてである。まだ小説は書けない。気力の持続が不可能だからである。詩なら書ける――と言うと詩はラクなようだが、ほんとは詩のほうが気力を要する。(中略、入院中メモをし、退院後書いた。大手術で、爪にそのショックが残った)
「死の淵より」という題の詩をひとつ書こうと思ったのだが、できなかった。できたら、それを全体の詩群の題にしようと思っていた。それはできなかったのだが、全体の題に残すことにした。》

《 死者の爪
つめたい煉瓦の上に
蔦がのびる
夜の底に
時間が重くつもり
死者の爪がのびる 》

 手術後の「爪」について高見は、「爪にガクンとあとが残り、それが爪がのびるとともに消えるのに半年近くかかった」と書いている。
 もうひとつ、「魂よ」の一部だけ。

《 魂よ
この際だからほんとのことを言うが
おまえより食道のほうが
私にとってはずっと貴重だったのだ
食道が失われた今それがはっきり分った
今だったらどっちかを選べと言われたら
おまえ 魂を売り渡していたろう (後略) 》
 
 ヨソサマのイベント
 トンカ書店10周年企画 
 http://www.tonkabooks.com/event.html#a151016

 10.110.12 「下町レトロに首っ丈の会10周年のあゆみ」
 10.1510.31 「御影倶楽部合同企画 本にまつわる作品展」
 10.16 1000~ 1830
「絵本deさんぽ ベアトリクス・ポター2」 参加費800円(資料・お茶付)
 10.19 1900~ 「ナンダロウさんの本見せナイト」 南陀楼綾繁  参加費1200円(お土産付)要予約

 
 


(平野)
 トンカさんで拙著読者からのお手紙をいただきました。柏田さん、森さん、海文堂のお客さんでありました。本の感想と懐かしい話を書いてくださっています。ありがとうございます。

2015年9月22日火曜日

わが胸の底のここには


 高見順 『わが胸の底のここには』 
講談社文芸文庫 1900円+税

 高見順(1907年~1965年)小説家、詩人。
 今年は没後50年。
 こちらを。

「高見順という時代 没後50年」 日本近代文学館
 
 高見のプロフィールも詳しく解説。

 http://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/cat-exh_current/6465/

 本書は自伝的作品、出生から府立一中時代までを書く。1946年から47年『新潮』、続いて『展望』『文体』に発表。出生の秘密、母のしつけと期待、出生についての世間の仕打ちなど、幼い頃から憎んできた過去を「剔抉」する。
 40歳を目前にして、高見は心身に「老衰の翳」を感じはじめる。戦争が終わるまで生き延びることができたら、「人生への借財というべき自らの文学上の制作」を成しとげたいと願っていた。高見は、「生きたい」「情熱の火を掻き立てたい」「老衰から救われたい」と思う。

《そのために、私は己れを語ろうと決意した。私は何者だろう? 私はどんな人間だったろう?》

 高見はしばらく生い立ちを書いて、読み返す。

《 わが胸の底のここには 言ひがたき秘密(ひめごと)住めり

 この藤村の詩の一節を、いわば無責任にその一節だけ取って、そしてそれをややともするとひるもうとしたがる自分を励まし叱咜するところの言葉として秘かに口ずさみながら、私はできたらそっ(、、)と隠しておきたい、――他人(ひと)にいうより寧ろ自分に対して(!)隠しておきたいわが秘密を、自分の気持ちとして容赦なく、苛酷に、(あば)いてきた。宛かもわが手で開腹手術施すような悲痛な決心で、私は自分でそう考えたわが身剔抉(てっけつ)した。

高見は自問する。「苦痛」に陶酔してしまっていないか、「露悪癖」ではないか、「書く」ことが目的になっているのではないか、これこそ「老衰」ではないか。

《私のも亦、この一種の老衰現象ではなかったか。羞恥に敏感だったという私の姿を書きながら、私はかかる現象に対しての羞恥を喪失していた。》

高見はさらに読み返して、羞恥と考えていたものが、「羞恥というより一種の虚栄心」だったと気づく。

《だが私は断じて、回顧の歩みを(剔抉の筆を)進ませねばならぬ。どうあっても進ませねばならぬということを、再び感じ出した。》

 文学者として自分を厳しく戒めて書いている。まさに身を切り刻んで。

(平野)

2015年9月20日日曜日

万骨伝


 出久根達郎 『万骨伝 饅頭本で読むあの人この人』 ちくま文庫 950円+税

「饅頭本」は、古書業界で追悼文集のことをいう。「葬式饅頭」をもじり、忌日に縁ある人に配る追悼本・記念本をこう呼ぶ。意外な大物が文章を寄せていることがあり、それが全集に収録されていない場合もある。少部数で、作家が本名で寄稿していたり、戦前のものなら当局の検閲がないなど、「掘出し物」が多いそう。
 尚、本書では自伝や研究本も含まれている。
 出久根は書名について、「一将功成りて万骨枯る」という漢詩から説明する。

《上役の手柄は、多くは部下の犠牲によるもの、という意味である。つまり、縁の下の力持ちに支えられて、大将の功績が生れたのだ。スポットライトを浴びる大将の身の上は、誰でも知っている。人知れず枯れた「万骨」のプロフィルを知りたい。(中略)
 もとより、「万骨」に甘んじている人だから、自らを宣伝しない。資料が少ないのが難点である。あえて人物評は避けた。面白く、ユニークな人柄、あるいは現代人の参考になる生き方を通した、感銘する言葉を残した、等々の尺度で任意に選んだ。(後略)》

「縁の下の力持ち」の話から、出久根が小学生時代に後者の縁の下にもぐり込んで宝探しをしたことを語る。使い古しの鉛筆などを見つけた。お金はなかった。様々な鉛筆をながめて楽しんだ。
 鉛筆から「トンボ鉛筆」の創業者夫人・小川とわの自伝『蜻蛉(せいれい)日記』(朝日書院、昭和39年刊)の話になる。出久根はこの本で鉛筆業界のことやトンボという虫について知る。トンボをマークにした理由、トンボのアルファベット表記を「TOMBOW」にした理由もわかった。夫人が図案や宣伝、製品開発でも大きな役割を果たしたことも。出久根は、この本を古典『蜻蛉(かげろう)日記』の研究書だと勘違いして目録で注文したらしい。
 実業家、文化人など50人(スポーツ選手、花柳界の女性、犯罪者もいる)が登場する。歴史に名を残す人もいるが、ほとんどが一般には無名の人。それぞれに異色の「人生」があった。
(平野)

2015年9月17日木曜日

枯草の根 三色の家 


 『枯草の根 三色の家 ほか一篇  陳舜臣全集第二十一巻』 講談社 1988年刊

 陳舜臣のミステリー3篇。いずれも中国人の陶展文が探偵役。

「枯草の根」はデビュー作品(1961年)、江戸川乱歩賞受賞。神戸の老華僑が自室で殺される。アパート経営と金貸しをしていた。元は中国で銀行員だった。この老人と碁敵ならぬ中国象棋敵の陶が事件を解決する。陶は海岸通のオフィスビル内で大衆中華料理店を経営、漢方医であり、拳法の達人、50歳、学生時代に日本に留学、中国では情報関係の仕事をしていたらしい。事件には地方政治家、華僑、中国人の大実業家らが絡み、戦前の植民地時代の歴史が背景にある。

「三色の家」1962年)は若き日の陶が登場。陳が小学5年生から暮らした家を舞台にする。1階が赤煉瓦、2階が白いモルタル、3階は先の住人の屋号を隠すために青ペンキのトタンで覆われていた。小説では華僑が経営する海産物問屋。昭和8年陶が東京の大学を卒業して帰国準備中、海産物問屋の跡取りである同級生から、父親が急死したと呼ばれる。陶が到着後、父親の信頼篤いコックが殺される。同級生の実妹、異母兄、他の使用人たち、近所の取引先、それに特高が怪しい行動を起こす。

「虹の舞台」1973年)は、北野の異人館街でのインド人宝石商殺人事件。戦前のインド独立運動闘士の遺産、色と欲、そして差別と貧困という問題もある。

 いずれもトリックや謎解きがあるが、陳舜臣は「歴史と人間」を描いている。

 稲畑耕一郎の解説を読むと、陳はデビューしたばかりの頃、既に『阿片戦争』の資料・調査を始めている。

 新聞広告に『阿片戦争』新装版(講談社文庫、全4巻のうち1.2巻)が出ていた。
 陳作品は品切が多いので、少しでも本屋の棚に作品が増えることを願う。特にミステリーはほとんど品切で、本書も図書館で借りている。

(平野)

2015年9月15日火曜日

石原吉郎


 細見和之 『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』 中央公論新社 2800円+税

 石原吉郎(19151977)、詩人。1939年召集、軍隊でロシア語の特訓教育を受け、41年関東軍特務機関に配属される。敗戦後、8年間シベリアに抑留され、5312月帰国。54年、雑誌『文章倶楽部』(『現代詩手帖』の前身)に投稿して特選。選者は鮎川信夫と谷川俊太郎。63年『サンチョ・パンサの帰郷』(思潮社)、76年『石原吉郎全詩集』(花神社)など。

 死因は入浴中の心臓発作と診断されたが、自殺説もあった。

《帰国後の石原は、まずもって「詩」を書いた。しかし、それは、シベリアでの体験をリアリスティックに描いた詩とは大きく異なっていた。さらに石原は、ようやく一九七〇年前後になって、シベリア抑留にかかわるエッセイを集中的に綴るようになる。そのエッセイもまた、通常想定される体験記とは著しく異なっていた。被害者の位置から過酷な体験を生々しく綴る、というものとはかけ離れた、深い省察を刻みつけた文章である。二〇世紀の極限的な体験を潜り抜けてゆくことで書き残された、石原の詩とエッセイ……。》

 細見は、石原の生涯と作品をたどり、戦争・戦後体験を読み解いていく。

《 詩が

詩がおれを書きすてる日が
かならずある
おぼえておけ
いちじくがいちじくの枝にみのり
おれがただ
おれにみのりつぐ日のことだ
その日のために なお
おれへかさねる何があるか
着物のような
木の葉のような――
詩が おれを
容赦なくやぶり去る日のために
だからいいというのだ
砲座にとどまっても
だからこういうのだ
殺到する荒野が
おれへ行きづまる日のために
だから いま
どのような備えもしてはならぬ
どのような日の
備えもしてはならぬと 》 (1960年発表)

 細見は1962年生まれ。大阪府立大学教授、ドイツ思想専攻。詩人でもある。大阪文学学校校長。

 『海の本屋のはなし』あれこれ

 14日、海文堂サポーターたちと新聞の取材を受けました。
 トンカさんがお客さんから聞いた話をしてくれました。
 暑い日に海文堂のクーラーで涼むことを「海風にあたる」、中央カウンターのことを「中突堤」、お客さん同士で言っていらしたそう。また、店の奥はケータイ電話の「圏外」で、嫌な相手の時は「奥の院」に移動して電話に出ない。
 このネタ、もっと早く聞きたかった。
(平野)

2015年9月13日日曜日

黄泉醜女


 花房観音 『黄泉醜女 ヨモツシコメ』 扶桑社 1600円+税
 
 

 女流官能作家・詩子が婚活連続殺人事件被告「さくら」の周辺取材をして、事件の真相に迫る。
「黄泉醜女」は日本神話から。イザナギが死んだ妻・イザナミに会うために黄泉の国に行く。彼は見てはいけないと言われたのに妻の醜い姿を見てしまい、逃げ出す。彼女は怒り、黄泉醜女たちにイザナギを追わせるが、醜女は彼が投げるものすべてを貪り食う。

《底なしの欲望を持つ――餓鬼よね。あの地獄絵によく登場する、餓鬼。(後略)》

 912日(土)大阪堂島の古書店「本は人生のおやつです!」(本おや)トークイベントにて。
 わが観音様に2年ぶりにお会いできました。サインいただきました。

「本おや」では20日まで「本おや古本市!」を開催。
 15日(火)にもトークショーがあります。
『「本屋」は死なない』(新潮社)の石橋毅史さんと名古屋の古書店・シマウマ書房店主が出演します。

 
 『海の本屋のはなし』あれこれ

 永江朗さんが新聞書評(共同通信配信)に続いて、雑誌『ミーツリージョナル』10月号「本のむこう側」でも取り上げてくださいました。

《書店はたんに本を売るだけの場所ではない。人と人をつなげ、あらたな関係性を生んでいく。(中略)人間がやることなので、どうしても好みや価値観が出る。好きな作家、重要だと思う作家はプッシュされるが、そうでない作家や作品もある。それについて怒る人もいるかもしれないが、そうしたデコボコがあるから生身の人が売る書店はおもしろい。(後略)》


永江さん、ミーツの皆さんありがとうございます。
(平野)

2015年9月12日土曜日

三本松伝説


 陳舜臣 『三本松伝説』 徳間書店 1991年刊 四六ハードカバー

「私」が語り手の短篇集。神戸を舞台にした私小説風のものと、楽しい旅行(取材旅行ではなく)をして「そのあと醸し出された作品」。神戸市立中央図書館で。

 表題作は、太平洋戦争末期北野の異人館でのできごと。「私」は外語学校の研究所助手を辞め、学校図書館の嘱託(無給)という身分。「私」の家は空襲を恐れて、港湾施設の多い海岸通から山に近い北野町に引っ越してきた。

 北野の異人館街を東西に通る山本通は古代から街道だった。「三本松」あたりは古墳があり、ちょうど峠になる。三本の松が旅人の目印であり休憩場所だった。現在、松は残っていない。

 日米開戦後、北野町界隈の外国人たちは帰国。収容所送りになった人もいる。洋館は空家だらけだった。管理人が住んでいたり、女中=阿媽(あま)さんが留守番していたり。「私」はSという阿媽さんにこの界隈について話をきいたことがある。

――祟りがありましてね。それであんなところにお不動さんを祀ったのですよ。
 と、Sさんは三本松不動尊のいわれを説明した。
 北野町の一丁目と二丁目を分ける坂の南半分を不動坂という。二丁目の角のところに不動尊の祠があるからだ。むかしここに三本の大きな松があったらしく、俗称「三本松」である。(中略)
 祠の北側が、古墳であったといわれている。それもふつうの死者ではなく、深い怨念を抱いて、非業の死をとげた人物がそこに葬られたという。ずいぶん古い時代のことで、その人物の名も、怨念のいきさつも、いまではわからなくなっている。(後略)》

 Sさんが、お不動さんを拝まないと祟る、祟りは外国人にも及ぶと、言う。フランス人姉妹の精神異常とアメリカ人の神隠しを例にあげた。アメリカ人と仲の良かったロシア人もおかしくなったらしい。
「私」の友人・楊がそのロシア人の家に住むことになった。楊と「私」はアメリカ人とロシア人の関係が気になる。
 楊は空襲に備え、半地下のワイン貯蔵場を防空壕にするために掘り進めたところ、白骨死体が出てきた。
 神戸大空襲で楊の家は焼け落ちるが、さて、あの死体は? 
(平野)

2015年9月6日日曜日

仮往生伝試文


 古井由吉 『仮往生伝試文』 講談社文芸文庫 2000円+税

 元本は1989年河出書房新社刊。
「極楽往生」「大往生」の「往生」。

《ここで往生伝というのは、平安の後期に書き留められたかずかずの聖人たちの極楽往生の記録のことであり、それを読むうちに、今の世に生きる人間にもひょっとしたら、仮往生伝ぐらいは書けるのではないかと、ふっと思ったのが始まりだった。仮免許の仮である。しかしまた考えてみるに、いくら仮という文字をかぶせたところで、無信心の徒には、仮にも往生伝は書けるものでないと悟って、試文と付け足すことにした。蛇足のたぐいか。》

 人はいつ「往生した」ことになるのか。
 増賀上人という人は、いよいよ往生という日に、弟子に碁盤を出すよう命じて石を並べた。弟子がなぜ碁石を並べたのかをおそるおそる訊いた。昔、人が碁を打つの見たことを念仏を唱えながら思い出し、打ちたいと思い打った、と答えた。
 上人は次に馬具の「泥障(あふり、鞍の左右に垂らす泥よけ)」を持ってこさせて、首にかけ蝶の衣装のようにして舞う真似をする。同じく弟子の問に、昔見たことを思い出してやりたいと思った、と答えた。古井は、僧が心のこりを果たしたことを、やり遂げたことになるのか、と自問する。上人が昔やってみたいと思ったことがすでに「やったにひとしい」のではないかと考える。
《それが臨終の際に、思い出され、繰り返される。》
 日常生活のなかでの「往生の際」もある。比叡山で長年修行した長増という僧は厠から消え、行方知れずになった。念珠も経文、持仏も置いて行った。弟子たちが探したが見つからず、死んだと思われた。数十年後、弟子のひとりが伊予の国に赴任、乞食をして回る師に出会った。師が言うには、
《あの日、厠に居る間に、心静かにおぼえたので、世の無常を観じて、この世を棄て仏法の少ない土地へ行って乞食をして命ばかりを助け、ひとえに念仏して往生を思い立ったままに》山を下りた。師は顔を知られていない土地に行くと、また姿を消し、弟子が京に上ってから伊予に戻り、古寺の林の中で往生した。
 ある僧は毎年大晦日の夜中に弟子を阿弥陀仏の使いにさせ、自分宛に「今日のうちにかならず来たれと」という文を届けさせた。僧は泣いて文を読み、また感涙にむせぶ、という一人芝居を演じた。世の人にもそのことは知れ渡った。僧は国守に極楽の迎えを得る儀式「迎講」を願い出た。国守はこれを受け、京から楽人を呼びよせた。僧が続けてきたヲコ(烏滸、愚かなこと)の沙汰がありがたい儀式として認められた。その儀式の中、僧は往生した。
 聖人たちの往生話を紹介しながら、突然古井の現在の日記が登場する。原稿の手直し、競馬場、旅の宿など、古典の世界と古井の日常生活がつながる。
(平野)
「ほんまに」WEB、「しろやぎくろやぎ」「お道具箱」更新。私のことを書いてくれているけど、ヤキモチ焼く人がいるから、抑えてください。
http://www.honmani.net/index.html

 すっかり忘れていました。FMわいわい「一行詩の広場」
「サイマルラジオ」 http://www.simulradio.info/
でFMわいわいを選んでください。9月中の毎土曜日、14時から放送。

2015年9月3日木曜日

読書感想会


 9.2 ワールドエンズ・ガーデン「読書感想会」

 事前の話では、市岡さん、逢坂さん、辻山さんとの鼎談のはずが、大阪の古書店「本のおやつだ人生だ!」? ちゃう「本は人生のおやつです!」坂上(さかうえ)さんも登壇というサプライズ。彼女の「おっさん、売り上げ考えんかい!」的(個人の感想です)発言で幕を開けました。のっけからゾクゾクしてしまったヘンタイおじさんです。
 もう一人、会場でカレーを提供してくれたスリランカカレー専門店「カラピンチャ」濱田さんも異業種の立場で参加、発言してくださいました。
「書庫バー」吉田さんも出張してくれました。
 書店員さん、取次さん、大学生協さん、顧客さんたちで定員満杯。これまでの拙著イベントのなかでは平均年齢がいちばん若いはず。元同僚も一名来てくれました(事情があって名を秘す)。
 そもそも、拙著読者として石井代表と想定したのは市岡さんでした。アカヘルも考えたのですが、彼は身内だし、読書傾向が特殊で、説明基準が難しいのです。変に古いことを知っています。「常識人」市岡さんが最適でした。
 逢坂さんとは神戸新聞の読書コラムを同時期に担当していました。エンタメ系に強く、コミックやライトノベルにも詳しい人です。
 辻山さんとお会いするのは2度目です。勤務されていたリブロ池袋本店の急な閉店は海文堂と共通するところがあります。神戸出身、父上が海文堂によくいらしていて、帆船カバーのかかった本が身近にあったそうです。
 海文堂サポーターたちがイベントを企画、開催してくださり、毎回たくさんの人が集まってくださり、著者として感謝の言葉しかありません。皆さん、ありがとうございます。
 これからサポーターといっしょに、できることを実行に移します。

 『海の本屋のはなし』あれこれ

『出版ニュース』8月中旬号のコラム「本の本」で紹介していただいています。
《最後の店員が綴る本屋と街の物語。》

 市岡さんからいただいた小学館のPR誌『きらら』9月号、福岡の書店員さんが日記で拙著に言及してくださっています。
《最後に残るものはやっぱり人と人の記憶なのだなと感じ入ってしまった。》
 両誌関係者御一同様、ありがとうございます。

(平野)
「本でおやつで人生で」ちゃう、「本は人生のおやつです!」が開店5周年を迎えます。
〈本おや古本市!〉 911日から20日(14日定休日)
 
 

2015年9月1日火曜日

戦争と平和 ある観察


 中井久夫 『戦争と平和 ある観察』 人文書院 2300円+税


 精神科医、神戸大学名誉教授、甲南大学名誉教授、公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構顧問。神戸在住。
 2015年は戦後70年、阪神淡路大震災20年にあたる。幼少時の戦争体験と震災時(神戸大学医学部精神科部長)の記憶を語る。「突然生活を壊滅」させるという意味で、中井のなかでは戦争と災害は結びつく。

目次
 
戦争と平和 ある観察  戦争と個人史  私の戦争体験  
対談 中井家に流れる遺伝子 ×加藤陽子
 
災害を語る  災害対応の文化  
対談 大震災・きのう・きょう 助け合いの記憶は「含み資産」 ×島田誠

「戦争と平和」は2005年発表(『埋葬と亡霊――トラウマ概念の再吟味』人文書院、『樹をみつめて』みすず書房に収録)。

《人類がまだ埋葬していないものの代表は戦争である。その亡霊は白昼横行しているように見える。》

 精神医学者の立場から、また「戦中派」として、戦争と平和について考察する。なぜ、戦争をするのか、平和は永続しないのか、個人個人が戦争に賛成するのか、残酷な行為ができるのか、戦争反対は難しいのか……

《戦争を知るものが引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。》

 中井は軍人の例を挙げるが、私たちは引退した保守政治家たちの平和発言を目にする。

《戦争と平和というが、両者は決して対称的概念ではない。前者は進行してゆく「過程」であり、平和はゆらぎを持つが「状態」である。
 戦争は有限期間の「過程」である。始まりがあり終わりがある。多くの問題は単純化して勝敗にいかに寄与するかという一点に収斂してゆく。戦争は語りやすく、新聞の紙面一つでも作りやすい。戦争の語りは叙事詩的になりうる。(中略)
 戦争が「過程」であるのに対して平和は無際限に続く有為転変の「状態」である。だから、非常にわかりにくく、目にみえにくく、心に訴える力が弱い。(後略)》

 戦争に向う言葉は「単純明快」で「簡単な論理構築」。

《人間の奥深いところ、いや人間以前の生命感覚にさえ訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。これらは多くの者がふだん持ちたくて持てないものである。戦争に反対してこの高揚を損なう者への怒りが生まれ、被害感さえ生じる。仮想された敵に「あなどられている」「なめられている」「相手は増長しっ放しである」の合唱が起こり、反対者は臆病者、卑怯者呼ばわりされる。戦争に反対する者の動機が疑われ、疑われるだけならまだしも、何かの陰謀、他国の廻し者ではないかと疑惑が人心に訴える力を持つようになる。》

 これは現在の「安全保障法案」賛同者やネット言論のことではない。過去の戦争準備期間に起こっていたこと。

《さらに、「平和」さえ戦争準備に導く言論に取り込まれる。すなわち第一次大戦のスローガンは「戦争をなくするための戦争」であり、日中戦争では「東洋永遠の平和」であった。》

 平和を維持していく努力は大きなエネルギーが要るわりには地味。戦争が終わったしばらくの間は「珠玉」のように思われるが、平和の期間が長く続くと「平和ボケ」と言われてしまう。
 戦争指導者層の論理、戦争の堕落、非対称戦争、戦争の後始末など、戦争史を分析する。

《私は戦争という人類史以来の人災の一端でも何とか理解しようと努めたつもりである。》

(平野)

 『海の本屋のはなし』あれこれ
9月2日 19時より ワールドエンズ・ガーデン「読書感想会」

 喜久屋書店・市岡さん、文進堂書店・逢坂さん、元リブロ・辻山さんを中心に、参加の皆さんが拙著の感想を語ってくださいます。私の予想では、「おまえ、甘いんじゃー!」と吊るし上げられるでしょう。覚悟して出席いたします。
 元町商店街WEB更新。http://www.kobe-motomachi.or.jp/