2015年11月26日木曜日

人生最後のご馳走


 青山ゆみこ 『人生最後のご馳走 淀川キリスト教病院ホスピス・こどもホスピス病院のリクエスト食』 幻冬舎 1300円+税


 大阪の淀川キリスト教病院ホスピスは成人病棟15床、小児病棟12床を備える。

《成人病棟の平均在院日数は約3週間。末期のがんで余命が23カ月以内とかぎられている方が主な入院の対象となる。》

 青山は新聞記事でこのホスピスに「リクエスト食」という取り組みがあることを知った。病院が決めた献立ではなく、患者が好きな料理をリクエストできる。

《ホスピスという場で個別に料理を提供するという独自性にももちろん引きつけられたが、「末期のがん患者は食事の摂取が難しい」というイメージを持っていた私には、なにより「食べる」ことができているのにとても驚いた(しかも生ものまでも)。》

 青山は、末期がんで入院した身近な人が思い出深いスープを味わっていた姿を思い出す。取材をしていくと、体力・食欲が落ちて「食べたくても食べられない」状態の患者さんたちが「再び食べられるようになった」という声を聞くようになる。
 患者さんたちはそのメニューにまつわるさまざまな思い出を語り出す。生い立ちや家族・友人のことを自分の人生をふり返るように。家族も初めて聞く話があった。

《人は食べないと生きていけない。
 貧しさで3日に1度しか持たせてもらえなかったお弁当のおかずも、家族で賑やかに囲む豪勢なすき焼きも、味も素っ気もない病院食のお粥も、体に入れば結局は同じで、生きるために重ねてきた単なる何千分の一の一食でしかないのかもしれない。
 でもやっぱり違う。食べることは栄養摂取の作業ではない。また、たとえどんなに質素なおかずであってもそこに思いの込められた食事は、その人にとって大切な時間で、それは「ご馳走」なのだ。》

 医師、調理スタッフにも取材。
 患者さん、家族にインタビューすることは辛いことだったでしょう。青山が患者さんたちの思いを文章にすることで、家族に思いが受け継がれる。青山は、自分の存在が「家族の物語を再編するきっかけ」になったように感じた。自分が「大きな贈り物をもらった」と最後に書いている。

(平野)
 青山は海文堂書店の最後の日を密着取材してくれた恩人。先日会ったのに、この本の存在を知らず、申し訳ない。

2015年11月22日日曜日

はっぴーあいらんど祝島通信


 『はっぴーあいらんど祝島通信 Vol.1

語り 優子✩(ゆうこ)  写真 國弘秀人  
みずのわ出版 1500円+税

 祝島(山口県熊毛郡上関町祝島)は瀬戸内海の小さな島で、上空から見るとハート形をしている。周囲12km、約300世帯450人がビワ・ミカン栽培、漁業で暮らす。

1982年、中国電力が隣の島に原発建設計画を発表。祝島では大多数が反対だが、推進派住民と対立が生じ、1000年以上続く伝統行事「神舞(かんまい)」(4年に1度の海上神事)が2度中止になった。

 著者は、自然豊かな瀬戸内海を守ろう、この海に原発が必要か一緒に考えよう、という立場。現在、彼女は島の民宿のおかみさんだが、千葉県市川市在住時代にコミュニティFMラジオで祝島のことや上関原発計画について放送した(200910月~119月)。首都圏で瀬戸内海の端っこの話題を伝えた。本書は放送内容を全4巻にまとめる、その第125回分。

 装幀はいつもどおり林哲夫。重厚長大・みずのわに似合わない可愛いすぎる本。カタカナ出版社のケータイ小説本みたい。著者名は「」付き、本文横書きだし。でも、内容は硬い。
(平野) 

2015年11月19日木曜日

まちの本屋


 田口幹人 『まちの本屋 知を編み、血を継ぎ、地を耕す』 

ポプラ社 1500円+税


 岩手県盛岡市さやわ書店フェザン店店長。1973年、岩手県西和賀町の本屋の生まれ。盛岡の第一書店勤務後、2000年に実家を継ぐが、「7年間の苦闘の末、店を閉じ」た。2007年、さわや書店入社。フェザン店は駅ビル内の小さな店。30万都市・盛岡には大型店や複合型のチェーンが進出、地元の老舗もある。そんな中でフェザン店は独自色を前面に出している。

《僕たちが大事にしているのは、「一冊一冊にこだわりを持って売る」ということに対する情熱です。》

 著者プロフィールで以下の紹介がある。

《地域の中にいかに本を根づかせるかをテーマに、中学校での読書教育や、職場体験の中学生を受け入れ、イベントの企画、図書館と書店との協働など積極的に行う。「売る」と決めた本は、あらゆる工夫をして徹底的に売ることでも有名で、さわや書店から生まれたベストセラーは数多い。》

 仕掛け販売が多いのかと思ってしまうが、ちがう。フェザン店が、まずお客さんに見てほしい棚の一つが郷土書売り場。口絵写真を見ると店の入口にある。

《今は売れなくても、絶対にこの店にとって重要な売り場だ、というところを選別できるかどうか。これが、その店の矜持であり、スタンスになっています。(中略)
 さわや書店フェザン店の場合、それは郷土書と言われる売り場です。絶対にここは引かない。そこには震災関連本も含まれます。》

紹介したいエピソードはたくさんあるが、ひとつだけ。田口はお客さんによく言われる。
「この店はさぁ、買おうと思った本が置いてないんだよね」
 田口は申し訳なく、入門書しかないこと、調べてリストはお渡しできること、取り寄せに時間がかかることを詫びて、大型店を紹介する。でも、そのお客さんはこう言う。
「でもなぁ、買おうと思っていた本とは違う本を、いつも二、三冊買っていっちゃうんだよなぁ(笑)」
 このやり取りはお国の言葉で聞きたい。
 1113日に田口の講演が大阪で開かれた。全国から若い書店員たちが駆けつけた。打ち上げには60人以上が参加、居酒屋ワンフロア占拠。
 田口は本屋の「今」と「未来」を語っている。「まちの本屋」をやっていく「覚悟」を持っている。
(平野)

 ヨソサマのイベント
 9回天神さんで一箱古本市
1122日(日) 10001600くらいまで
京都府長岡市長岡天満宮参道
http://suirenndou.exblog.jp/

 

2015年11月17日火曜日

神戸・続神戸・俳愚伝


 西東三鬼 『神戸・続神戸・俳愚伝』 
出帆社発行 路書房発売 19759月刊


 講談社文芸文庫版(2000年)を持っているのに。

 帯、五木寛之。解説、大岡信。

《昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱出した。》

 三鬼は歯科医だった。33歳のときに俳句を始め、すぐに新興俳句の代表的存在になる。38歳で歯科医を辞める。大病を患った。40歳、京大俳句事件で検挙され、起訴猶予。42歳、東京を出奔して神戸に。家族とも俳句とも別れた。不倫関係にあった女性に頼まれて子を産ませた。彼女の故郷に同行して親に挨拶までしている(後、この女性を妻にした)。女性にモテた。
 神戸でアパートを探すために、バーで働いていそうな女性の後について行く。三鬼の経験では、バーにはアパート住まいの女性がいる。考えどおり、その女性がアパートを兼ねたホテルを教えてくれた。

《それは奇妙なホテルであった。

 神戸の中央、山から海へ一直線に下りるトーアロード(その頃の外国語排斥から東亜道路と呼ばれていた)の中途に、芝居の建物のように朱色に塗られたそのホテルがあった。》

 同宿の人たちは、日本人12人の他、ロシア人、トルコ人、エジプト人、台湾人、朝鮮人ら。夫婦はひと組、あとは独り者で、生業不明者や水兵や兵役忌避者など、女性の多くはバーで働いていた。三鬼は当時商社マンだったが、皆から「センセイ」と呼ばれた。彼らはセンセイに「種々雑多な身辺の問題」を持ち込んでくる。三鬼は彼らの話を聞いてやり、厄介事につき合う。
 雑誌連載中に告白。「神戸」の話を、「これからも書くのだが、何のために書くのか、実はよく判らないのである」、読者のためならフィクションを書くだろう、事実の羅列しているのは「読者の一微笑を博したいのでもないらしい」と。

《かくして、ようやくおぼろげながら判って来た執筆の目的は、私という人間の阿呆さを、公開する事にあるらしいのである。だから、私のくだくだしい話の数々は、何人のためのものでもなく、私にとっても恥を後世に残すだけの代物である。しかし私は、わたしが事に当るたびに痛感する阿呆さ加減を、かくす所なくさらけ出しておきたいのである。》
 本書は自伝的作品で、どこまで事実かは不明。でもほとんど事実なんでしょう。

 同社の〈新刊案内〉がはさまれている。


 
 ヨソサマのイベント

 横溝正史 生誕地碑建立記念イベント 法月綸太郎講演会

1121日(土) 14時~ 東川崎地域福祉センター
主催 東川崎ふれあいのまちづくり協議会 神戸探偵小説愛好會


 (平野)

2015年11月11日水曜日

山河太平記


 陳舜臣 『山河太平記』 ちくま文庫 20074月刊


初出『太陽』(平凡社)19781月号~796月号、単行本は797月平凡社より。
『太平記』は建武の中興から南北朝時代の歴史物語。本書はその争乱の舞台をたどるエッセイ。
 楠木正成が討ち死にする湊川の合戦は神戸。湊川神社は正成を祀っている。
 戦前、後醍醐天皇を支えた正成は大英雄の忠臣だった。5月の楠公祭の時期、学校で講話があり、陳が6年生だった1936年は楠公戦死600年でさまざまな行事があった。陳が通った中学は正成の本陣にあたる場所だった。大人になっても『太平記』愛読した。

陳は題名に「山河」とつけた。

《山河ということばで、私たちが連想するのは、杜甫の「国破れて山河在り」の句であろう。『太平記』は南朝側からみれば敗戦の物語である。南朝の敗戦のうらには、とうぜん二十世紀の日本の敗戦があり、それから復興しつつあった目前のすがたがあった。七〇年代の日本はその復興をなしとげ、さらに列島改造のスローガンで、山河そのものが大きく変化しようとしていた。》

 陳は『太平記』ゆかりの土地を、今のうちに歩いておかねば大きく変わってしまう気がした。
 最初に向かったのは大和から河内につながる竹内街道。後醍醐が正成を召したとき、勅使はどの道を通って河内に行き、正成はどの道を通って笠置(山城国)に馳せ参じたか。陳は、鎌倉勢の布陣を考慮して両者のコースを竹内街道と推測し、車で走り、歩き、沿道の歴史遺跡や神社仏閣を訪ねる。

 ヨソサマのイベント
  『まちの本屋  知を読み 血を継ぎ 地を耕す』刊行記念トークイベント
本屋をあきらめない~これからの本屋について語ろう~ 田口幹人(盛岡市さわや書店フェザン店長×星真一(紀伊國屋書店グランフロント大阪店長)
1113日(金) 1830~ 
詳細はこちらを。
https://www.kinokuniya.co.jp/c/store/Grand-Front-Osaka-Store/20151009135912.html

(平野)貴重な海文堂史料が林哲夫さんのもとに。http://sumus2013.exblog.jp/
「ほんまにWEB」更新。
http://www.honmani.net/index.html
 

2015年11月7日土曜日

トンカ10周年トーク


 11.6 トンカ書店10周年記念 平野義昌トーク

『海の本屋のはなし』で書かなかった〈本屋のはなし〉

 おかげさまで満員、キャンセル待ちの方から電話メッセージまで頂戴しました。お江戸〈古書マスク堂〉店主が商売おっぽり出して来てくれました。ありがとうございます。

 苦楽堂・石井代表手作りスライドで、在りし日の懐かしい写真(海文堂のです、私のではない)や発売以来のイベントを見ていただけました。新刊発行間近で超多忙なはずの代表が遊び心満載で工夫を凝らしてくれたのはうれしいのですが、点点点。我が娘が「彼氏を連れて来た」の文字とか、フランス文学の話をするつもりなのに〈フランス書院〉の画像が出たりとか、「反原発フェア」の話で福岡店長と私のイラストが貼り付けられたりとか。ものすごく楽しんで作ってくれて、ほんまに忙しいのん? でもね、これまでのイベントとはまったく違う話ができました。新米の頃読めなかった「難読漢字出版社」のことも打ち明けました。

 どういうわけか一番前の真正面の席は誰も坐らず。おじさんたちは怖くないよ~、と呼びかけましたが、みんな「遠慮しい」です。



 参加のトンカ常連客さんから、海文堂の古い出版物のカラーコピーをいただきました。ありがとうございます。
 
 

『交流電気読本』『船の種類と用途』『船用焼玉機関取扱問答』『船用焼玉機関講義』『機関艤装』『船舶の自動制御と遠隔操縦』

 いずれも昭和20年代・30年代の本。奥付には「検印」が押されています。30年代末の本に「われわれはよい書籍と雑誌を出版しよう。」の岡田一雄の言葉が掲げられています。

 終了後、トンカさんから売上スリップのコピーを渡されたのですが、なんと購入者からのメッセージがびっしりと書き込まれていました。皆さんのお気持ちとトンカさんの心配りに感謝いたします。
 
 

 今回のトークで拙著発売記念イベントは予定終了です。これまで参加・ご協力いただきました皆々様に篤く御礼申し上げます。
(平野)

2015年11月5日木曜日

わたしが外人だったころ


 鶴見俊輔 文  佐々木マキ 絵
『わたしが外人だったころ』 福音館書店 1300円+税

 19957月、月刊『たくさんのふしぎ』として出版。

 鶴見は16歳のときアメリカに渡った。英語がしゃべれず、学校の試験は白紙で出していたが、「3か月たつと、突然に日本語が消えました」。
 同級生の家で家族として受け入れてもらえた。

《アメリカという国は、ちがうところから来た人たちがおたがいに約束をして、その約束をまもって国を動かしてゆくことを理想としているので、そのやりかたが家庭をつくるときにも、自然に受けいれられています。》(ただし、その約束は原住民や黒人に対しては守られず、今もアメリカの大問題として残っている)

 日米開戦を友人が知らせてくれた。

《「戦争がはじまった。これから憎みあうことになると思う。しかし、それをこえて、わたしたちのつながりが生きのびることを祈る」
 と言いました。》

鶴見は敵国人として警察に拘束されるが、人権は保障され、獄中で卒業論文を書くことができた。捕虜交換船で帰国する。

《日本が戦争に負ける時、負ける国にいたいという思いが、つよくわたしの心の中にうごきました。》

日本で鶴見を待っていたのは徴兵検査。ジャワ島で通訳の任務に就くが、病気で敗戦をベッドの上でむかえる。なぜ自分は生き残ったのか、その理由がわからない。自分が何かをしたから死ななかったというわけではない。「なぜ自分がここにいるのかよくわからない」。その気持ちはずっと続いていて、「今ではそれが、わたしのくらしをささえる力になっています」。
 鶴見は、アメリカで英語を話し英語で考えていたし、アメリカの人は鶴見を受け入れてくれていたが、外人だった。日本に戻ると、自分を外人だと感じた。

《今は、わたしは外人ではないのか。自分の底にむかっておりてゆくと、今もわたしは外人です。地球上のさまざまな外人にとりまかれている、日本人の中の外人です。そこから考えると、この本の題から、わたしは、はみだしています。》

 日本人も他国の人から見れば外人。外人=世界の人たちとのつき合いはますます深まる。

(平野)
 明日619時、トンカ書店10周年記念イベントのひとつ、平野トークです。
『海の本屋のはなし』で書かなかった〈本屋のはなし〉 
 すみません有料イベントです。1000円。