2016年6月14日火曜日

まっ直に本を売る


 石橋毅史 『まっ()に本を売る ラディカルな出版「直取引」の方法』 苦楽堂 1800円+税
 

『これからの本屋』(書肆汽水域)、『HAB Vol.2 本と流通』(H.A Bookstore)など本の販売流通に関する出版が続いている。ちょっと前なら〈業界本〉で地味に本棚に並んでいたジャンル。新刊本屋・古書店が積極的に販売してはる。業界は「出版不況」と言われ、出版社や本屋が廃業し、取次会社まで倒産する。一方でアマゾンなどネット販売の力は大きくなっている。書店員の労働条件は厳しい。でも、個人で出版や本屋を始めたい人が多くいる。
 本書は2001年に創業した出版社〈トランスビュー〉に取材、その理念と方法を詳しく紹介する。「直取引」という方式。創業以来23人の人員で続けてきた。主に人文・社会系の本を出版、2003年池田晶子『14歳からの哲学』がベストセラーになり、現在も増刷している。
 流通の卸し問屋を出版業界では取次会社と言い、出版社の本を全国の本屋に送る、返品を出版社に返す、その物流とお金の精算を受け持つ。取次会社が数多くの本と雑誌を毎日全国の本屋に届けている。重要な役割を果しているとともに、その分とても大きな力を持っている。物流と金融を支配していると言える。業界の慣習もあって、老舗・大手出版社が有利で新しい出版社の参入が難しい、小さな本屋や地方の本屋に売れ行き良好書が入りにくい、また個人経営本屋の新規取り引きについて金銭的負担が大きい、などの問題がある。注文品入荷が遅い、希望数が入らない、送品返品過剰など業界の問題点をすべて押し付けられているような立場でもある。
〈トランスビュー〉は基本的に取次会社を通さず本屋に直接納品し、精算する。本屋の利益を増やすことを第一に考えている。当初70%卸しだったが、現在は68%。取次会社経由(おおよそ78%くらい、個別の取り引き条件がいろいろある)よりも安く卸す、本屋が希望する部数を納品する、注文はすぐに出荷する、もちろん返品可能。送料は出荷・返品それぞれ元払い。本屋は経費削減で返品を抑える、ということは当然注文部数を慎重に考える。売れたらまた注文すればよい。業界の返品率は30%後半から40%(これを超えることもしばしば)だが、〈トランスビュー〉は10%台。
 新しく出版社を志す人、本屋を開きたい人に、こんなやり方もある、という紹介。また、〈トランスビュー〉は他の出版社の「取引代行」業務も行っている。受注、流通、精算業務を請け負い、その実費をもらう。本書の出版元〈苦楽堂〉もこの方式を使っている。
 業界には元々「直」の出版社があるし、〈トランスビュー〉方式にならっている出版社もある。既存の出版社でも「直」取引をしてくれるところもある(条件はさまざま)。本屋も「直」中心でしいれている店もある。取り引き条件が悪くても「直」で新本を仕入れる古本屋もある。これからも出版・流通・販売で新しいやり方が生まれるかもしれない。本を作ること、売ることに情熱を傾けて努力している人たちがいる。
 著者は1970年東京生まれ。出版社営業マン、業界新聞編集者を経て、フリーライター。著書に、『「本屋」は死なない』(新潮社)、『口笛を吹きながら本を売る――柴田信、最終授業』(晶文社)。自身の経験を織りまぜて出版流通・販売について考える。

 装幀 原拓郎  装画 吉野有里子
(平野) 
 海文堂は「直」を積極的にしていた。元々海事書は専門的すぎて少部数出版、販売条件は昔から高正味・買い切りながら、確実に売れる分野。海文堂にしかない、ということが「売り」になる。

2016年6月12日日曜日

村に火をつけ、白痴になれ


 栗原康 『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』 岩波書店 
1800円+税

 伊藤野枝(18951923)福岡県生まれ。辻潤、大杉栄との関係をスキャンダラスに取り上げられることが多いが、本書は野枝の執筆活動を中心に、彼女の思想・行動に焦点をあてる。結婚、性、売買春など社会道徳にペンで立ち向かった。

目次
はじめに  あの淫乱女! 淫乱女!/野枝のたたりじゃあ!/もはやジェンダーはない、あるのはセックスそれだけだ
第一章      貧乏に徹し、わがままに生きろ  お父さんははたらきません/わたしは読書が好きだ (略)
第二章      夜逃げの哲学  西洋乞食、あらわれる/わたし、海賊になる/ど根性でセックスだ (略)
第三章      ひとのセックスを笑うな  青鞜社の庭にウンコをばら撒く/レッド・エマ/野枝の料理はまずくて汚い? (略)
第四章      ひとつになっても、ひとつになれないよ  マツタケをください/すごい、すごい、オレすごい (略)
第五章      無政府は事実だ  野枝、大暴れ/どうせ希望がないならば、なんでも好き勝手にやってやる (略)
あとがき  いざとなったら、太陽を喰らえ/はじめに行為ありき、やっちまいな

 目次をざっと書き出したが、これで著者の文章の調子がわかっていただけるか。岩波が本書を出すことが面白い。それでもやはり、大杉栄、野枝、甥宗一の最期は辛い、酷い。
 著者は1979年埼玉県生まれ、東北芸術工科大学非常勤講師、専門はアナキズム研究。『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(夜光社)、『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス)など。

〈あとがき〉では著者自身の近況を書いて、野枝のことに。
……いざとなったら、なんとでもなる。おさないころから、そういう実感をもっていた。なにがなんでも、好きなことをやってやる。本がよみたい、勉強がしたい、文章をかきたい、もっとおもしろいことを、もっとするどいことを。それをやらせてくれるパトロンを、友人を、恋人をじゃんじゃんつくる。代準介、辻潤、平塚らいてう、大杉栄などなど。恋人だってほしいし、セックスだってたのしみたい。子どもだってつくってやる。うまいものをたらふく食べることだって、あきらめない。これすごいのは、ふつうどれかひとつやったら、どれかをあきらめざるをえなくなったりするのだが、野枝はちがうということだ。ぜんぶやる。欲望全開だ。稼ぎがあるかどうかなんて関係ない。友人でも親せきでも、たよれるものはなんでもたよって、なんの臆面もなく好きなことをやってしまう。わがまま、友情、夢、おカネ。きっと、この優先順位がしっかりとわかっていたひとなんだとおもう。》

 書名は、野枝の小説、「白痴の母」(障害のある息子を持つ母親の悲惨な死)、「火つけ彦一」(被差別部落青年の復讐)から。
(平野)
 612日「朝日新聞」読書欄で、北田博充『これからの本屋』(書肆汽水域)紹介。

2016年6月11日土曜日

出奔者と空襲


 西東三鬼 『神戸 続神戸 俳愚伝』 
講談社文芸文庫 20005月刊 
 底本は75年出帆社刊。「神戸」は54年『俳句』(角川書店)に連載。
 三鬼は1942(昭和17)年に「東京のすべてから遁走して神戸に来た」。不倫相手の妊娠・出産、三鬼本人の重病、そして、所属していた「京大俳句」が治安維持法違反により、三鬼も検挙・拘留された。三鬼は歯科医を辞めて貿易会社に勤めていたが、その仕事も辞め、家庭を捨て、神戸に流れてきた。三鬼42歳。住まいはトアロードの「トーア・アパート・ホテル」(中山手通2丁目)。仕事は軍需産業のブローカー。貿易会社からのつながりだろう。
 本書は、ホテルに長期滞在している奇妙で愉快で、でも善良な外国人たち女性たちとの交流を語るもの。三鬼は「センセイ」と呼ばれた。
 三鬼は神戸にも空襲が来ることは確実と思い、山手にも部屋を確保していたが、ホテルに住んでいた。住人たちとの生活が楽しかった。しかし、43年の夏、おんぼろ異人館(山本通4丁目)に引っ越す。海水浴から戻って近所の銭湯でのこと、いろいろな言語が反響している。

……素ッ裸の異国人達は、彼らの頭上から火の海が降る日が近づいているのに、正々、堂々としていた。その中に、我々二、三人の日本人だけが、タオルで大切に前をかくしてウロウロしていた。》
 三鬼は思う。
……この隣人たちは、いざという時一発の焼夷弾も消さないだろう事を、今更はっきり見てしまった。》

 同居人は同棲相手波子と犬、猫ほか小動物たち。花壇を畑にし、防空壕を作る。この家は戦後「三鬼館」と名付けられる。

《私の予想した通り、三鬼館に移転して間もなく、神戸は二回の空襲で焦土と化したが、私の化物屋敷は焼け残った。
 ホテルは、これも私の予想通り、焼夷弾の雨の下で、またたく間に灰になったが、土蔵だけが焼け残った。そしてその中には、ホテルの持主が逃げる時に閉じ込めた、十数匹の猫が、扉の内側に山になって死んでいた、ということである。
 焼けるホテルから逃げ出した酒場のマダム達は、思い思いの手廻品をぶらさげて、十数人がドッと三鬼館になだれ込んだので、私は再び、奇妙なホテルの再現の中に暮すことになったのである。》

 住人たちの食料は、三鬼の畑の馬鈴薯、エジプト人「マジット氏」が「どこからか拾って来る、丸焼けの鶏」。乳児のために「中国人椅子直し君」が空襲で赤ちゃんを亡くした「中国婦人」を連れて来た。避難者たちは12ヵ月で「殆ど落ちつく所」へ落ちついて、23人が残った。
 三鬼はホテルである娘に英語を教えていた。空襲の日、三鬼は彼女を捜した。

《私はまだ燃え盛る街の、路上に垂れた電線を飛び越え飛び越え、彼女の家へ走った。
 彼女の路地の前の空地は、スリバチ形の防火池になっていた。その池のコンクリートの縁に、隙間もなく溺死体が並べてあった。
 そこまで来る路上で、すでに私は多くの焼死体を見たのだが、少しも焼けたところのない、溺死体の姿は、周囲がまだ燃え盛っているだけに、むごたらしくて正視出来なかったが、もしやと思って池の縁を廻っているうちに、見覚えの夏服を着た、溺死体を発見した。(中略、彼女は弟を抱き、腕に波子にもらったバッグ)
 そこまで見届けた私は、元来た道を一目散に走った。
 途中で一度嘔吐した。
 防火池をめぐる、生き残った者の号泣が、いつまでもうしろに聞えた。(後略)》

 西東三鬼19001962、本名・斎藤敬直)、岡山県苫田郡津山町(現在津山市)生まれ。俳句は病院歯科部長時代に患者さんに勧められて始めた。仲間に作品をプリントするから俳号をこしらえろと言われ、「即座にでたらめで、三鬼と答えた」。津山市のWEBサイトでは「サンキューのもじり」とある。連作、無季、リアリズムを詠む新しい俳句運動に参加。
  昇降機しづかに雷の夜を昇る
 特高警察は、「昇降機」を共産主義を表わして同志の闘争意識を高めたもの、と解釈した。戦争を題材にした句もある。

(平野)

2016年6月9日木曜日

浦島太郎直系争い

 神戸空襲、休憩。ネタ切れか。

■ 井伏鱒二『七つの街道』1964年、新潮文庫。『別冊文藝春秋』5657年連載、57年文藝春秋から単行本)の「ささやま街道」に「浦島太郎」直系争いの話が出てきた。
 井伏の古い友人である編集氏、丹波篠山出身。
《その男が言うことに「自分は丹波篠山の山家の生まれで、浦島太郎の直系の子孫である。ところが、自分の分家のうちでも、俺の方こそ浦島太郎の直系だと言って、本家と分家が直系争いをつづけていた。もう何百年も前からその争いが続いていて、本家と分家は同じ村にありながら、お互に口もきかない不仲になっていた。しかるに、本家の生れである自分の父親が、まだ父親となる前の弱年のとき、ふとしたことから分家の娘と別(わり)ない仲になった。これには分家の老父母も、本家の老父母も肝を消した。何代も前の昔から、直系争いをして来た不倶戴天の仲である。しかし恋する男女というものは、恋のためには、家名にも黄金にも、親のいさめにも目をくれぬ。恋する二人は、親の激怒を物ともせず家をとび出して世帯を持った。すなわち、その二人の間に生れたのが僕という人間だ。」と、彼は身の素姓を打ちあけて「これは絶対に秘密だぞ。」と言った。》
 井伏の印象は、先祖代々の深刻な大問題なのに「浦島太郎」はユーモラスということと、話がうますぎて丹波にはこんな民話・伝説が語り継がれているのだろうかということ。同行の地元郷土史研究者(海文堂顧客氏の名がある)に聞きそびれている。
 伝説は今も受け継がれているのだろうか。丹波出身者に聞かねばならない。

■ 三浦佑之『風土記の世界』 岩波新書 840円+税 2016.4月刊
 日本書紀に浦島太郎の話が出てくるそう。丹波国余社郡(たにはのくに よざのこほり)の「浦島子」が亀を釣り、その亀が女性に変身して一緒に蓬莱山に行く。丹波は山国だが、古代「丹波国」は丹後も含んでいた。「余社郡」は若狭湾に面する。古代「丹波国」は713年に丹波と丹後に分国された。日本書紀「浦島子」記事はそれ以前に書かれたことになる。

日本書紀(720年成立)には「浦島子」の物語が「別巻に在り」とも書かれているが、その「別巻」は現存しないというか、作られていない。このことから著者は、ヤマト王権正史編纂者は「浦島子」を別の史書にも登場させる予定だったのではないかと、正史編纂構想を検証する。その構想は頓挫したが、別の形で「風土記」編纂につながったと考える。  
 現存する「風土記」は5国で、他に後世の文献に引用されている「逸文」があるだけ。本書はその「風土記」に描かれた古代日本を紹介する。ヤマトタケル伝承や神々の滑稽話など、「古事記」「日本書紀」とは違う多彩で豊かな地方の姿がある。著者は、現存しない多くの国の「風土記」のことを想像する。「まぼろしの風土記」。
《まぼろしの風土記からは、遺された風土記と同様に、中央であるヤマトに包み込まれてしまいそうな地方の姿と、それに抗い続ける固有の姿と、その二つが見いだせるだろう。そしてそこから浮かび上がるのは、「ひとつの日本」に括られる途中の日本列島の姿である。(後略)》
「丹波国風土記」「丹後国風土記」も現存しないが、『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)に「丹後国風土記」の記事の一部と考えられる資料があり、「浦島子」の物語が載せられているそうだ。
(平野)

2016年6月7日火曜日

日本空襲記


 一色次郎 『日本空襲記』 文和書房 1972(昭和47)年6

 1944(昭和19)年54日から45821日まで、空襲の記録を中心にした克明な日記。大学ノート11冊分。各種通帳、兵器工場の資料、米軍が撒いた謀略伝単など資料多数 
 日記は、妻の通院から始まる。一色は幼いときから家族との縁が薄く、妻を「はじめてできた家族、といってもよい……」と書く。短期間しか住んでいない沖永良部島の自然にも育った鹿児島の文明にも警戒心を持ち、それらを拒絶する「怯えやすい心」をもっていた。この日記も不安な心で書きはじめた。妻の退院で少し中断している。空襲を記録するとは考えていなかった。
 一色は37(昭和12)年4月上京、42年結婚、妻カノコ(仮名)。文筆生活を志すがうまくいかず、工場勤め。徴用令(軍事産業などで働く者の移動が禁止)で工場を辞めることができない。医師が神経衰弱の診断書を書いてくれた。興亜日本社(海軍の慰問雑誌『戦線文庫』)、みたみ出版(児童雑誌『少国民文学』)を経て、西日本新聞社東京支社勤務。
 89日、福岡本社で会議のため東京駅出発、この時期に新しい雑誌を出す予定があった。10日大阪駅で乗り換え。神戸の様子。

《神戸も、山の手を一部残してそっくり焼けている。その黒い地面がだらだら傾いた下の海に、航空母艦がうかんでいる。外形は破損しているようでもないが、一隻の護衛艦もなくポツンとひとりで泊まっている。むかし、銀座の自動車を見るように、びっしり船がうかんでいた神戸港に今は航空母艦のほか一隻の船も見えなかった。須磨の海まできて、ようやく、砂浜に、傾いた一隻の木造船を見た。子供が遊び場にしている。》

 11日、広島駅停車時間にホームを歩く。死臭が充満。学生から惨状を聞き、車窓から景色を見て、原子爆弾の威力に驚く。本社では、新聞も出版も停戦交渉がまとまるまで話が進まず、待機。一色は佐賀にいる祖母を訪ね、一旦福岡に戻り、鹿児島に向かう。

 当ブログで書いた「815日」の話、『海の聖童女』執筆きっかけのこと。
 鉄道は空襲で分断されていて、熊本県の川尻駅から徒歩。避難民の行列が続く。

《素足で歩いている親子がある。父親と七、八歳の女児だけだ。母親の姿は見えない。顔も手足も首すじも異様に黒く、反対に唇だけが、ふやけたように白くなっている。埃だけのよごれではない。煤けている。ほかの避難民にくらべると所持品も少なかった。風呂敷包みをひとつ、父親が腰に結わえているだけだ。(中略)
「どちらからですか。どこからきたのですか」
 ふたりへ声をかけたが、どちらも私を見ようとしなかった。父親も子供も、睡りながら歩いているのだった。》

 顔中包帯で長い竹を杖にして足をひきずっている者(性別不明)、老婆一人、布団を背負う者、鍋釜を下げている者、カサだけ持っている者……、宇土駅まで来て、出るかどうかわからない汽車を待つ。なんとかして、鹿児島に帰りたいと思う。桜島の姿を眺めたいと思う。しかし、リュックの食料も金も少なくなっているし、本社に戻らねばならない。鹿児島を離れて8年、鹿児島弁が使えなくなっている。せめて鹿児島の言葉を一言でも聞きたいと思う。行列の人たちは皆無言。一色は鹿児島行きをあきらめ、子ども連れに米をあげようと思う。

《どうして、こんなにも子供の姿が目につくのだろう。どうして、子供たちは睡りながらまだ歩けるのだろう。どうして、泣いてくれないのだろう。元気な声で唱歌をうたってくれないのだろう。どうして、子どもたちがこんなにされてしまったのだろう。私はわめきたくなった。
「失礼ですが、お米を上げます」
 ひとりの母親の胸に、米の袋を押しつけた。母親はおじぎをして米を抱くと、そのまま歩いていく。こじきではないのに、どうして、ひとことお礼を言ってくれないのだろう。私はその強い故郷のなまりを、聞きたかったのに!》

 一色は歩いてきた道を戻る。味噌の入った弁当箱を老人にあげ、着替えも本も捨てる。

『海の聖童女』は家族愛の物語。しかし、現実の一色は家族関係に恵まれていなかった。夫婦の間に子どもはいなかった。本書の最後で、48年に妻と別れたことを記している。

(平野)ほんまにWEBの連載3本それぞれ2回分一挙に更新。担当ゴローちゃん奮闘、って、さぼってた?
http://www.honmani.net/index.html

2016年6月4日土曜日

小松左京の空襲体験


 小松左京 『やぶれかぶれ青春記』 旺文社文庫 1975年刊 

69年『螢雪時代』連載。2年ほど前に当ブログで紹介した。空襲場面は兵庫の工場と西宮の自宅。
 1945(昭和20)年、小松は神戸一中3年生。これまで農作業、疎開家屋取り壊し、高射砲陣地づくりなどに動員されていたが、次は工場。週1回だった空襲が、次第にふえ、毎日になり、日に3回の日もあった。4月からの予定が5月末になった。動員先は造船所、空襲で破壊されている建物があり、熱気とホコリと騒音。既に45年生も働いていた。
《そんな工場へ、連夜の空襲で寝不足と疲労でフラフラになり、一日わずか五勺の外米と、虫クイ大豆や虫食いトウモロコシ、ドングリの粉などで、すっかりやせおとろえ、おまけに消化の悪い煎り豆を食べては水をのむので、大半がピイピイ腹下しでフラフラの私たち三年生が到着した。》
 支給される弁当が唯一の楽しみ。昼飯前に空襲警報が鳴ることがある。「すきっ腹でもつれる脚をひきずって大急ぎでとび出して行く」。避難場所は2キロ北の山。
《たいていは目的地につくまでに、カンカン、カンと、非常退避の半鐘がなり出し、青く焼けただれた空の底が、うんうん唸り出す。と、――私たちがかつて砂をはこんだ陣地の高射砲が、ドカン、ドカンと、すきっぱらをゆするような音をたてはじめるのだった。しばらくして、ザァーッと空をゆすりあげるような音が頭上をおおう。絨緞爆撃でいっせいに投下される、何千本もの焼夷弾、爆弾が空気を切る音なのだ。ふってくる焼夷弾が、空にまかれた千万の針のようにキラキラ光ってみえる。思うまもなく、ポンポン、パンパン、あたりは破裂音につつまれ、合い間にドスン、ドスンと、これは半トン、一トンの爆弾で、これが爆発したときは、青い大気の中を、池の面を走る波紋のように、衝撃波が、水紋よりももっと早く雲をゆすってパッと空にひろがってゆくのが見えた。衝撃波が眼に見えるということを、そのとき知った。》
 空襲が終われば、また工場に帰らなければならない。工場が焼けて、「しめた!」と叫んでしまった級友が、職工頭に鉄パイプで殴られた。
《まったく、その焼け方は見事なもので、見あげるばかりの、雨天体操場のような工場が屋根スレートも、トタン、モルタルの壁もあとかたもなくぬけおち、鉄骨だけになったコンクリートの間に、青い、鉛のかたまったようなものがあって、それが窓ガラスのとけたものだと知ったとき、その高熱が肌で理解できたように思い、こんな所で逃げおくれ焼け死んだら、さぞかしあつうてかなわんやろな、と息をつめて考え、それがもうあかん、と思いながら、空襲警報のたびに、必死で鉛のように重い脚を動かす力となった。》
 空襲のあと、鉄道は止まる。家まで約20キロを5時間6時間かけて帰る。焼け跡の死体を見ても、栄養失調の身体と頭には「はあそうか、なるほど、ぐらいの反応しか起こらなかった」。玄関にへたりこみ、食事をして、着のみ着のままでひっくりかえる。
《……思うことといえば、明日電車が動いてなければ工場を休めるんだが、ということだけだがいまいましいことに、電車は翌朝になると手品のように動いているのだった。》

 自宅には焼夷弾が10数発落ちたが、焼け残った。エレクトロン焼夷弾のときは、大人たちと早めに消しとめた。油脂焼夷弾のときは小松しかおらず、一人で消した。
……玄関先におちた二発をぬれたむしろで消しとめ、軒下でもえはじめたのをひっつかんで裏の畠にほうり出し、軒びさしの一発を庭へはたきおとし、最後に二階の大屋根につきささってもえはじめたのを、のぼっていって火たたきの棒で道路へたたきおとした。(中略、近所を見に出る)焼夷弾の雨はもうやんでおり、かわりに周囲一面の大火事によって吹きおこるおそろしい熱風が、つむじをまいて灰と火の粉をたたきつけてきた。空は一面ぶあつい煙にとざされ、それが炎を反射してにぶく赤く光り、まわりはただごうごうとうなる、眼もあけていられないような熱い旋風だった。》
 焼夷弾は何十発も束ねられてケースに入れられ投下される。そのケースの羽根「モロトフのパン籠」という大きな鉄の円筒が小松の背中をかすめた。
……一足おくれていれば、むろんこちらはグシャグシャになってつぶれていたろう。だが、そのときは、そんな事を想像してふるえあがるゆとりはなく、天をあおいで、一つ舌打ちしただけだった。(後略)》

 小松は小学生のときから「ひどい近視」で、軍国少年不適格、中学に入ると「非国民」と罵倒された。戦中から戦後にかけて、経験したものは戦争と飢えと貧困。それでも小松の文章は明るい。
……若さの中には、はてしなく暗く、重っ苦しいものがある反面、それとおなじくらい底ぬけに明るく、軽く、強靭なものもふくまれている。(後略)》
(平野)

2016年6月2日木曜日

一縷の川


 直井潔 『一縷の川』 新潮社 1977

 本書の空襲場面は長田区北部、高取山の麓。主人公・溝井勇三は戦地で赤痢にかかり、全身の関節が曲がらない病気を併発。家族にできるだけ負担をかけたくない思いから、傷痍軍人療養所に入所退所を繰り返す。45(昭和20)年314日、1年ぶりに兄の家に戻る。近所の商店は閉ざされ、家々の窓ガラスは縦横斜めに紙が貼られ、狭い庭に防空壕。その夜、大阪大空襲。B29の大編隊が神戸の空を通過した。そして、16日夜から17日にかけて神戸に。
《既に半ば予測されていて、その夕刻過ぎから遠く南方海上を北進するB29の情報が刻々ラジオを通して伝えられていたが、ただ手を拱いてきいているより仕方なかった。(後略)》
 兄が防空壕に入れるかどうか心配してくれるが、勇三は腰を屈められない。家に残る。
《やがてラジオが淡路島上空侵入を伝える頃には悪魔のようなB29の黒い機影が夜空に大きい鱶のようにうごめいて見え、その特有の鈍い金属音と共にひしひし身に押し迫るのを感じた。僕はもうすっかり観念した。》
 大倉山の高射砲が一機撃墜。近所の家から歓声が聞こえた。
《しかしその歓声も束の間続々飛来するB29の編隊から落とされる焼夷弾があたかも激しい雷鳴をまじえた大夕立のような物凄い音をたてて降りかかって来た。そしてそれまでわめきぱなしだったラジオのマイクから、「神戸市民よ、健闘せよ。」野球放送まがいのアナウンサーの声を最後にして、あとは上空を乱舞するB29のただ蹂躙にまかすばかりだった。
 急にあたりは火災が巻き起す風に木々はその梢を鳴らし騒然とした感じで、その中をいつか一面に煙がたちこめその臭いが強く鼻をついて来た。》
 家は山の谷間のような場所で直撃はなかった。前の丘の林から火の手があがり、焼夷弾の破裂音だけが聞こえる。背後の高台の家は炎上したよう。
《市中から避難して来たらしい人達が次々わめきながら家の前の坂道を上って行く。
「わしはほっといて、お前等だけ逃げ言うて、おばあさんだけが火の中で死んでくれましてなあ。」そんな行く人同士の話も耳に入った。
 果してどの位の時間がたったか。半時間だったか、一時間だったか、もっとそれ以上だったか、文字通りこの世の地獄図絵そのままの時間も、いつか姿を消したB29の撤去と共に、周囲の谷間は鼻をつくような闇と静けさが取戻された。しかしそこから見下しになっている市内の方はまだ盛んに燃え盛っていると見え、それからも長い間余燼の火明りが望見された。(後略)》
 直井の自伝小説。「一生の不具廃疾の体」になりながら文学を志し、家族・友人・師に支えられた。

直井潔19151997、本名溝井勇三)、広島県生まれ、神戸育ち。滝川中学校卒業後、区役所勤務。37(昭和12)年応召、38年病気のため送還された。療養中、志賀直哉作品に傾倒、特に『暗夜行路』の主人公が悲劇を克服していく姿に感動する。志賀に手紙を書き、作品を見てもらうようになる。志賀の推薦で『改造』(434月号)に「清流」が掲載される。神戸空襲後、東京の小山書店から手紙、大空襲で出版予定の単行本『清流』が焼失したことを告げられる。再度印刷するも、5月の空襲でまた焼ける。しかし、小山書店戦後最初の出版物として世に出る。52(昭和27)年「淵」、69(昭和44)年「歓喜」が芥川賞候補。『一縷の川』は77(昭和52)年平林たい子文学賞受賞。
 60(昭和35)年、療養所で出会った女性と結婚、彼女は空襲で脊椎を損傷して車椅子生活。夫婦は明石の自宅で習字と数学の塾を開いた。
 志賀は出版社に直井の作品掲載・出版を働きかけた。直井が師に会えたのは693月、初めて手紙を書いてから27年経っていた。
《「そう、随分になるね。」微笑されながらいわれました。(中略)
「しかし君はほんとうにえらいよ。その体でなかなか出来ない事だ。よくやって来たよ。」そういうお言葉が一瞬涙声を含んできかれ、思わず僕は先生の方を見返すようにしました。そしてそこに慈愛溢れる先生の視線に接してぐっと胸一杯の熱さがこみあげるのでした。》

(平野)
 文通だけで師弟関係が成立した。
 中央図書館で閲覧。