2015年1月13日火曜日

須磨の近代史


 『須磨の近代史――明治・大正・昭和史話――』 神戸市須磨区役所 平成103月初版 平成258月第3 頒価500

目次

須磨の歴史(近代) 田辺眞人

地図に見る須磨の近代

須磨の史話  明治維新後の行政改革 小学校のはじまり 須磨と肺結核 須磨浦公園 異人館 須磨の漁業 武庫離宮と大正天皇 民俗芸能 須磨百首かるた 板宿・武井秋錦園 ……

表紙写真 山陽電鉄境浜停留所(昭和8) 

海水浴シーズンだけの停留所。水がきれいだったことと、電鉄がさまざまな催しを行い、賑わった。潮流によって砂浜の侵食が進み、昭和32年幕を閉じた。
 
 明治時代、肺結核はまだ不治の病だった。療法は、休養をとり栄養をつけ体力を養う。良い空気、日光浴、散歩、それに海水浴。明治22年、日本初のサナトリウム「須磨浦療病院」が創設された。院内で野菜・果実を栽培、畜産も手がけ、食事は西洋流を取り入れた。結核専門だが、無医だった須磨の人々はすべての診療を受けるために訪れた。
 明治285月、日清戦争従軍の帰途、正岡子規は喀血。神戸港に上陸して神戸病院に入院。小康を得て、7月、高浜虚子が付き添って「須磨保養院」に移った。ここは「須磨浦療病院」とは別だが、子規は同病院長・鶴崎の診療を受けている。子規は須磨の句を多く残し、小説にも書いている。
藻塩たれつつ侘ぶといひし須磨は海水浴の名所と変じて海士が焼く烟とみれば汽車のすぎゆく世の中……》「月見草」
 子規は8月末で退院、故郷松山に戻った。
(平野)