2015年8月27日木曜日

青雲の軸(その1)


  陳舜臣 『青雲の軸』 集英社 19842月刊

197072年に『螢雪時代』連載した自伝小説。幼少時から19458月までのこと。小説では「陳俊仁」。
 俊仁が生れたのは1924(大正13)年。俊仁は子ども心に自分が家の外の人間と違うことに気づく。家で話している言葉が遊び友だちに通じない。子どもたちと遊んで覚える言葉が家で通じない。そのことで悩んだわけではない。

《(どうやら、ぼくはほかの子供たちと違うらしい)と、かんじただけである。》
 しかし、小学校に入学する頃には他人の言葉に隠された意味を理解するようになる。

《そのころからである。――悪童たちが、こちらに浴びせることばに、すくなからぬ侮蔑の調子がこめられているのに気づいたのは。》

 台湾は日本の植民地で、台湾人は日本国籍を持つ。でも、日本人ではない。俊仁にも数々の苦い思い出がある。
 小学生の時から港と船が大好きで、毎日のように港で船を眺めていた。『船と空』という月刊誌を愛読し、新聞の「出船入船」欄の熱心に読んだ。商業学校1年の2学期、1936(昭和11)年秋、神戸港沖に海軍の艦船が集まり、それを天皇が視閲する行事=大観艦式が行われた。帝国海軍の大デモンストレーションで、俊仁は楽しみにしていた。しかし、前日の授業中に配属将校から呼び出される。呼び出された生徒は俊仁だけではない。彼らには共通点があった。植民地出身の生徒だった。そして、明日の外出禁止をまわりくどく厳命される。大観艦式を見学してはならないという脅迫である。

《観艦式はこんなふうにして、彼のなかで溶けて消えた。》

 友の病死があった。日中戦争が始まった。阪神大水害が起きた。進学しても戦争で卒業できるのか。不安、不満、疑念など、俊仁は様々な出来事のなかでわき起こる感情を整理した。進学志望を外国語学校のインド語科に決めた。

《「みんながやるようなことやったかて、どないもならんやろ」俊仁はなに気なしにそう言ったが、じつはそれが彼の本音であったのだ。
 彼は少数派人種である。まず日本人でないということが、彼の精神の支柱であった。他人とはちがうということが、生きるための糧であった。みんなとおなじ存在になっては、その糧を失い、餓死してしまうかもしれない。
 行不由径。――行くに径に由らず。(中略、人生は大道を歩めという格言)
 大道とはみんなが行く道のことであろう。しかし、俊仁はみんなが行く道を、自分が行ってはならないと、頑固に信じていた。大ぜいの日本人のなかに、変わり種として投げ込まれた自分の、それが宿命のようなものではあるまいか。――(後略)》

 インド語を選んだのは、使用人口が多いことだけではなく、インドがイギリスの植民地であることもあった。

《たかだか志望校をきめただけにすぎないがなにか一つの懸案が解決され、長いあいだかぶさっていた覆いが、とつぜん取り払われたような気がした。その風通しのよさが、彼にはさわやかであった。》

 ここまでが第1部。第2部では台湾同胞や在日の外国人たちとの交際をまじえ、戦争中の混乱、終戦の日を書く。

(平野)神戸市立中央図書館蔵。

  『海の本屋のはなし』あれこれ

「日本の古本屋メールマガジン」に載せていただきました。


『週刊朝日』94日号の「週刊図書館」で紹介いただいています。
《親しまれた書店の「戦記」である。》
 書いてくれたのは朝山実(あさやま じつ)さん。関西で出版営業をしてはった時にお世話になりました。現在はインタビューライターとして活躍中です。著書に、『アフター・ザ・レッド』(角川書店)、『父の戒名をつけてみました』(中央公論新社)など。