2016年5月29日日曜日

灰色の記憶


 久坂葉子 『灰色の記憶』
 1952(昭和278月『VIKING』に発表。『久坂葉子作品集 女』(1978年、六興出版)、『幾度目かの最期』(2005年、講談社文芸文庫)所収。自伝的作品。
 44(昭和19)年夏、「私」は女学校でラジオの情報を聞いて報告する係。警報があったが、防空壕に入らず一人運動場を駆けぬけ裏山に逃げる。死の恐怖と死に対する衝動を語る。翌45年早々、女性教師と登校途中に警報があって近くの防空壕に入った。どちらも空襲そのものについては言及されていない。
 455月、動員された工場でのこと。

《空襲警報がなると、十分間走って山の壕まで行った。五月のよく晴れた日、工場地帯を爆撃された。山の壕でもかなりひどいショックを受けた。私は壕から十米もはなれた小さな神社の社務所でラジオをきいて、メガホンで報知していた。しかし、頭上に爆撃をうけているのだから報知する必要はないのである。それにすぐラジオは切れてしまった。主任教師は大きな木にかじりついてふるえていた。あの恐ろしく強がりな彼がまあ何と不恰好なと、もう一人の報道係と苦笑した。しかしその女の子も恐しいと云って壕へかけて行った。私は仕方なく、ガラスがふきとんで危いので、草原の庭へ出て、寐ころんで本をよみ出した。私には、空襲や爆撃は恐しくはなく、それより自分の罪に対する罰の方が恐しかったのである。(中略)空襲はおさまり、時々、破裂音がお腹の皮をよじり、生徒の泣き声がしていた。(後略)》

教師に叱責され、本は没収。「私」は死を意識し、生きることの意味を考えていた。生きていることを罪、苦悩を罰だと考えた。
 6月夜の空襲で山手の家が焼ける。

《物干台へ出て、父と二人で市内の焼けてゆくものをみていた。それは全く壮観であった。ざあっという音と共に、殆ど飛ぶように階下へ降りた。もうあたりは火になっていた。足許で炸裂する焼夷弾の不気味な色や音。弟と女中と姉と私は、廊下を行ったり来たりした。母は祭壇の中の、みてはならないものとしてある金色の錦の袋をもっていた。父は悄然とたっていた。(中略、消火をあきらめ表通りに出る。朝、一旦親戚宅に避難、夕方戻る)焼土はまだくすぼっていた。父は執事や叔父達と其処で後始末の打合せをしていた。金庫が一つ横だおれになっていた。ピアノの鉄の棒が、ぐにゃりまがって細い鉄線がぶつぶつ切れになっていたし、電蓄も、電蓄だと解らぬ位に残骸のみにくさを呈していた。本の頁が、風がふく毎に、ぱらぱらくずれて行った。私は何の感傷もなくそれ等の物体の不完全燃焼を眺めた。(後略)》

「私」の頭の中にあるのは「死」。以下エピローグより。
「私」は見るもので悲しみ、行うことでがっかりし、考えることで恐怖し、感情の動きで疲れる。「忘却」だけが自分を苦しめないと気づく。しかし、突然「記憶」を呼び戻さずにはいられない衝動にかられる。「忘却」を捨てようとしている。

《私は、死という文字が私の頭にひらめいたのを見逃さなかった。(中略)
 私は、だんだん鮮かに思い出してゆく。おどけた一人の娘っ子が、灰色の中に、ぽっこり浮んだ。それは私なのである。私のバックは灰色なのだ。バラ色の人生をゆめみながら、どうしても灰色にしかならないで、二十歳まで来てしまった。そんなうっとうしいバックの前でその娘っ子が、気取ったポーズを次々に見せてくれるのを私は眺めはじめた。もうすでに幕はあがっている。》

 久坂葉子19311952、本名川崎澄子)、神戸市生まれ。川崎財閥の一族(父方の曽祖父が川崎造船所創業者)、父方母方とも華族の家柄。諏訪山尋常小学校から神戸山手高等女学校卒業、相愛女子専門学校ピアノ科中退。49(昭和24)年『VIKING』同人、50年『ドミノのお告げ』が芥川賞候補。521231日、『幾度目かの最期』を書き上げた後、京阪急行(現阪急電鉄)六甲駅で梅田行き特急電車に飛び込み、自死。
 
 

 
 ふくろうは旅行のおみやげ。ありがとう。
(平野)