2019年3月21日木曜日

若山牧水伝


 大悟法利雄 『若山牧水伝』 短歌新聞社 1976年刊

 大倉山の図書館で借りた本。私の目的は若山牧水(18851928年)の恋愛だが、ここでは先日の「伊藤博文」に関連した話を紹介。

 1908(明治41)年、牧水は早稲田大学を卒業。翌年7月、中央新聞社入社、社会部勤務。同社は伊藤博文・立憲政友会の機関紙的存在。1026日、ハルピンで伊藤が安重根に狙撃され死亡。111日、横須賀港で牧水は伊藤の亡骸を迎えた。翌日の新聞に牧水が記事を書いた。

「霊柩を迎ふ 落葉雨の如き加納山」

〈藤公の遺骸海を渡つて今日横須賀の埠頭に着くと云ふ、東京より出迎への人々並びに横須賀市民は云ふも更なり付近の住民悉く心を一にして之を待ち受け此日粛然の気は(はや)く一帯の沿岸山野に溢れてゐた、市街の上なる加納山は付近の海上一面を瞰下し得る好地位にあるので午前八時頃からどやどやと押来る者引きも切らず瞬く間に其所等に人の山を築いて了つた、日極めて清和碧りに凪いだ遥かの海上に夫らしい煤煙を認めた時には皆云合わせた様に目前と名目叩頭し、何れも暗涙に咽んでゐた。(後略)〉

 牧水は伊藤の墓に参り、1127日記事「秋は寝たり偉人の墓畔」も執筆(署名は木酔生)。
 ところが、社では社長と編集主幹が対立し、主幹一派が退社。牧水は主幹の縁で入社していたのでとばっちりを受け、退社を命じられた。約半年の記者生活だった。
 文学史本では、牧水と兵庫・神戸について芦屋在住の富田砕花との関係や歌会指導で語られることが多い。本書は母親の異母弟が神戸市相生町にいたことを紹介している。牧水は東京と故郷宮崎往来に際し(神戸・宮崎間は航路)、たびたび立ち寄っている。
 この神戸で、後に数々の恋の歌を捧げる女性に出会う。以前投稿した、俵万智『牧水の恋』(文藝春秋)を。


(平野)