2023年4月4日火曜日

森於菟 鷗外作品と父鷗外

4.2 「朝日歌壇」より。

〈信州をルーツの「みすず」休刊と知るに案ずる「図書」や「ちくま」を (長野市)細野正昭〉

 夜のテレビニュースで訃報。328日坂本龍一逝去。ご冥福を。

4.4 訃報。芹沢俊介、小浜逸郎。ご冥福を。

 呑み会「明日本会」の案内に会員諸氏の返事が早い! みんな待っていてくれたのだね。

 朝の連続テレビドラマ、牧野富太郎をモデルにした話が始まる。世界的な植物学者で苦労人ゆえエピソードはいっぱいあるでしょう。神戸にも縁が深い。妻はじめ女性に苦労をかけたこと、支援者との関係はどう描かれるか。

 前回に続いて、森於菟随筆「鷗外作品と父鷗外」「金曜」第49(へちまクラブ、1953[昭和28]5月、表紙の絵は山田無文)掲載



 1902(明治35)年、於菟は独逸学協会中学(現在の獨協中学・高等学校)2年生在学中。鷗外の随筆「大家(たいか)」が国語教科書に掲載された。ハイネ青年が文豪ゲーテを訪問した時のゲーテの態度を批判した文章。国文のS先生が鷗外について、医学博士で偉い文学者、諸君も医者になるのだから文学教養もこの大先輩を目標とすべき、と訓戒。S先生は於菟のことを知らなかった。於菟はクラスで最年少、体格小さく、気は弱く。

……級のなかで一向幅きかず、交際範囲も甚だ狭かったが、この時だけは数名の同輩が私の方をふりむき、ウインクみたいなことをするのもいた〉

 帰宅して鷗外に教科書を見せた。

……父は知らん顔で二、三行音読して、さて眉の間に縦のしわをよせ「だれが書いたのか、へたな文章だなあ」といった、教科書の編さん者が著者にことわらず且つあまり得意でない所を転載するのが不快でもあり、子供に対しても少し照れくさかったのかもしれない。〉

 S先生は同級生の「親切なおせっかい」によって「チビ小僧が文豪のせがれなることを認識」。於菟は作文の点数がよくなったように思う。

 鷗外死後、著作権が確立。出版、転載、放送、上演などのたびに於菟が承認を求められる。台湾赴任中、中学教科書編纂委員を務めたが、鷗外の文章が取り上げられることはなかった。戦後帰国すると、鷗外作品掲載が「著しく多くなった」。すべて承諾するが、問題がある。鷗外作品は旧仮名遣いであるべきと思う。それに採用作品の偏り、「山椒大夫」「高瀬舟」「安井夫人」。

(平野)