2014年11月17日月曜日

豹


■ 「豹」 山本周五郎の神戸

「豹」は『人情裏長屋』新潮文庫所収。

 周五郎は友人の姉の嫁ぎ先に下宿していた。
 本作品では、主人公・正三が東京から兄の家に来て滞在。兄が亡くなって3度目。兄は船会社の重役だったが、赴任先のアメリカで自殺。須磨の家には嫂・純子と小さい甥、お手伝いさん。正三は純子に次第に惹かれていく。
 近くに須磨寺があり、須磨寺公園に電鉄会社がつくった動物園があった。そこから豹が逃げた。閑静な住宅街に不安が広がる。ある夜、純子が夫の死の真相を打ち明ける。女性問題が原因だった。正三は図書館通い(大倉山の中央図書館)を日課にしているが、本を読んでいても気持ちが動揺していた。兄は家の反対を押し切って愛する女性と結婚した。その兄が女性問題で自殺とは。

……そのほかにもいろいろ複雑な事件が絡み合ったのであろうが、ついにはそのために自分を殺してしまったという。あの生活力の旺盛な、しかし立派な紳士であった兄が――。正三は人間の奥底にひそんでいる情熱の避けがたい力強さをはっきりと身近に感じた。

 書物を借出したがそれを披(ひら)いてみる気力もなく、半日ぼんやり過したあとで図書館を出た正三は、足の向くままに湊川へ出て食事をしたのち、ふらっと映画館へ入った、そして猥雑な映画の動きに眼を放しながら、行く時間かを過して外へ出ると夜だった。
 それでもまだ家へ向う気持にならないので、公園の闇を歩き廻ってから山手通りのほうまで行った。するとどうしたわけか、不意に嫂の声を聞きたいという慾望が、激しく正三の胸をかき乱しはじめた。まるで熱病のようだった、たった今、即座に嫂の眼に触れなければ、そのまま頭が狂ってしまうような気持だった。正三は自動車を呼び止めて須磨へ向った。

 さて、豹。深夜、純子が豹を恐れて正三の部屋に来る。風の音や庭の竹ざおが倒れる音に純子が怯える。

「正三さん」
 純子は低く叫びながら、左手でぎゅっと正三の手を握った。
「大丈夫です」
 正三はとっさに片手を純子の背へ廻した。喘ぐような純子の息吹が正三の面を蔽った。むっとする香料の匂いと、ぬれた女の唇が自分のを強く求めて動くのを感じた。

 翌朝、甥っ子から前日の昼に豹が射殺されたと聞かされる。純子もそれを知っていたはず。正三は悪寒を感じる。

……射斃(いたお)された獣よりも、もっともっと身近に、闇の廊下で自分の唇の上に押合わされたもののほうが、豹の正躰であったのだと知った。その日の午後、正三は須磨の家を立って東京へ帰った。

 正三は「情熱の避けがたい力強さ」から逃げた。

(平野)

2014年11月16日日曜日

陽気な客


■ 「陽気な客」 山本周五郎の神戸

「陽気な客」は『つゆのひぬま』新潮文庫所収。

 周五郎の神戸時代を題材にしている。
 
 周五郎は友人(語り手・おれ)と呑んでいる。彼に[仲井天青]という人物が死んだと聞かされるが、周五郎には心当たりがない。昔劇団を主宰していた人で、[おれ]が神戸の出版社で働いていた時の同僚。
 
 その出版社というのは、「神戸夜話社という怪しげな雑誌社」。

 その社は元町通りと栄町の電車通りをつなぐ狭い横丁の喫茶店の二階にあった。もちろん古い木造の日本建築で、表に面した六帖二間をぶっとおして、古畳の上に机と椅子を並べたのが編集室なんだった。……

 そこの主筆が仲井。

……初めて社長に紹介されたとき、彼はねじり鉢巻をして椅子の上にあぐらをかいて、その椅子の右側に一升壜を置いて、そいつを湯呑み茶碗に注いで、ぐいぐい飲みながら原稿を書いていた。……実になんといったらいいか、要するにそんなふうに編集所にはぴったりし過ぎて却って不自然なくらい傍若無人なようすだった。
「ふん、君も東京の落人か、ふん」
 そのとき彼はこう云ってにやっと笑った。いい顔なんだ、実にいい顔なんだ。ちかごろの里見弴の顔をもう少しばかりしけ(、、)させて苦痛と頽廃の薬味を加えればいいかもしれない。彫りの深い、眼のぎろりとした、とにかくただものでない顔なんだ。……

 社長と妻がもめてケンカ。仕事にならない。仲井と[おれ]は居酒屋に。

 そこでおれたちは飲みだしたのさ。主筆はコップであざやかにくっくっと飲む、乱暴なんだが少しも乱暴のようにはみえない。左手の肱を台について指先で頭を押え、右の肩をおとして少し斜に構えた姿勢なども風格的なんだ。酔いがまわりだすとあのぎろりとした眼が熱を帯びたようになって、いよいよただものでないという感じが強くなった。
「うんそうか、文学をやるのか、よかろう」
「いや、そんな、文学なんていう、そんなその」
「てれるなよみっともない、文学なんてそんなにてれるほどたいしたもんじゃない、おれは魚屋をやる、おれは八百屋になる、……おんなじこった、てれたり恥ずかしがったりする意味なんかちっともありやしない、さあ、きみの文学のために乾杯しよう」

 酔っ払った仲井が尋ねる。いつから自分を「仲井天青」と見抜いていたのか、と。
[おれ]は「仲井天青」を知らないから当惑するが、彼のプライドを考えて「狡猾にたちまわった」。仲井は、かつて文壇でその作品を認められ劇団を主宰したこともあった、と愚痴をこぼす。東京で妻が待っている、と。
 雑誌社は不振、[おれ]の給料は飲み屋と弁当屋の支払いで赤字。仲井は前借りまでしている。ある給料日、[おれ]と仲井はクビを言い渡される。仲井は社長に憐れみを乞うが、にやにや笑っている。[おれ]は社長を張り倒し、仲井は押し倒す。一緒に飲みに行く。しこたま飲んで、仲井は家には帰れないと言う。妻が来ているはずと。彼が社長にすがったのは妻を呼び寄せる算段をしていたからだった。

「ぼくはきみに対しても恥ずかしい、冷汗が出てならない」
「――――」
「芸術だとか野心だとか、ひとの作品を罵倒し、人を嘲り、笑いとばし、われらの時代だ旗を揚げようだの、……嘘っぱちだ、(略)ぼくはぼくの才能によって墜ちるところへ墜ちて来たのさ……(略)」

「きみはこれを機会に東京へ帰ってくれたまえ、そして、しっかりやってくれたまえ」
 天青は別れるときおれの手をぐっと握った。
「決して安きについたり投げた気持になっちゃいけない、どっちにしたって人生は苦しいもんだ、苦しむんなら自分のほんもので苦しむべきなんだよ、……じゃあさよなら、さよなら、頼むからぼくのことは忘れてくれたまえ」

 木村久邇典『山本周五郎の須磨』によると、[仲井]と[おれ=陽気な客]は周五郎を含む実在の人物複数を合成。
(平野)

2014年11月15日土曜日

神戸事件


■ 内山正熊 『神戸事件 明治外交の出発点』 中公新書 1983年(昭和58)2月刊


 著者(1918~2011)東京生まれ、当時慶應義塾大学法学部教授、国際政治外交史専攻。83年、三重県大内山村に国際学習塾「大内山塾」を自費で開き、中国人留学生を受け入れ、環境保護実学研修、日本語教育を行なった。

「神戸事件」
 慶応4年(1968)1月11日、前年開港したばかりの神戸の町中で起きた日本と外国の軍事衝突事件。場所は西国街道、現在の大丸神戸店の東向かい、三宮神社前。姫路から西宮に向かう備前藩の行列を外国兵が横切ろうとした。藩兵は阻止したが、外国兵は行列に沿って歩きながら、なおも横切ろうとしたので、砲術隊長・瀧善三郎が槍で突き倒した。外国兵が短銃を行列に向けたため、瀧も鉄砲隊を呼んだが、銃士たちは発砲してしまった。騒ぎにイギリス公使ハリー・パークスは居留民保護のため兵に出動命令を出した。英仏軍が港の軍艦から上陸し、備前兵に攻撃。撃ち合いになるが、備前藩は全軍摩耶山へ引きあげた。双方に負傷者が出たが、死者はいなかった。

……列国側は、備前藩兵の追撃だけでなく、神戸中心部を占領して軍事統制下に置き、さらに会場にあった日本海側のおもだった蒸気船五隻を抑留し、そこからめぼしい財貨を奪い去ったのである。……

 翌日伊藤俊介(博文)が兵庫到着、パークスと会見。
 外国側は日本全体の問題として謝罪を要求。維新政府は全面的に受け入れ謝罪し、発砲命令責任者・瀧を処罰。2月9日、兵庫永福寺で瀧は切腹、外国公使も立ち会った。
 対外的にはまだ徳川幕府が外交を担当していた。維新政府まだ新政府声明をしていない。“攘夷”を継続していた。

 その維新政府が名実ともに日本の代表政権になるためには、まず第一に内戦を鎮圧して国内を統一するだけでなく、外国から幕府に代る正統政府であるという国際承認を獲得する必要があったのである。それには、朝廷みずからが外交の場に乗り出して、その存在証明をとりつけることがぜひとも必要であった。……

 事件は攘夷とか外国人襲撃というものではない。外国兵の無礼を排除し負傷させたが、発砲により死罪とされた。しかも、外国側は公使に対する発砲と主張した。
 岩倉具視が備前公に手紙を書いている。先帝・孝明天皇の攘夷によく仕えてくれたが、形勢は一変し万国公法を尊重しなければならない、天朝のため、皇国のため、備前藩のため、瀧に死んでくれ……。
 瀧の犠牲によって得たものは何か。

……維新政府は外国公使団と接触することになり、朝廷は開国和親の新方針を列国に伝えて、従来幕府の結んだ条約を遵守するという意思を通告した。ここで維新政府は、対外的には、まず第一の関所を通過したわけであるが、対内的にも、鎖国攘夷の旗幟鮮明であった朝廷は、その旧方針を改めて、開国和親の新姿勢を明らかにすることになったのである。

……もし神戸事件が維新早々に起こらなかったならば、攘夷から開国への転換は難渋して、真の開国がおくれたにちがいない。また、この神戸事件の痛切な体験は、日本外国の基本路線を西向き一辺倒に定着させたのである。

 従来の史料だけでなく、イギリスの外交文書、さらに瀧の子孫の研究書、岡山県御津町の郷土史料にも当たった。

(平野)

2014年11月14日金曜日

永田耕衣


■ 『現代俳句の世界13 永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔 集』 朝日文庫 1985年(昭和60)1月刊

永田耕衣集
序文 吉岡実
 秋元不死男集
序文 中井英夫
選句あとがき 鷹羽狩行
 平畑静塔集
序文 白井健三郎

略年譜 齋藤愼爾
解説 三橋敏雄

 本ブログは“神戸本”時々新刊書という方針(?)なので、「永田耕衣」を中心に。

 永田耕衣(1900~1997)、兵庫県加古郡尾上村(現・加古川市)生まれ。兵庫県立工業学校卒業後、三菱製紙所勤務。学生時代から文芸誌をつくり、俳句、映画、演劇に親しんだ。社会人になって謡曲、尺八を習う。作業中の事故で右手三指の自由を失う(この負傷で後に兵役免除)。静養中に禅と出会う。新聞・俳誌に投句、社内で劇団結成、戯曲を書き、武者小路実篤の「新しき村」に小説、詩を発表。1934年(昭和9)処女句集『加古』刊行、序文を書いたのは当時の俳壇実力者・小野蕪子。
 戦時下、俳句にもその影が及んでくる。新興俳句運動は社会現象・生活を詠む。「京大俳句事件」で平畑静塔(1905~1997、精神科医、京大俳句同人)、西東三鬼(1900~1962、新興俳句の中心)検挙。秋元不死男(1901~1977、海上保険会社勤務)は新興俳句雑誌に関係していて逮捕された。実は、耕衣も本名で投句していた。師匠格・蕪子の警告を受け、句作を中断、謹慎する。

 戦後、三鬼、静塔、石田波郷(1913~1969、俳誌「鶴」主宰)、不死男ら、俳句界の理解者というべき人たちと親しく交わる。
 定年退職後、須磨に住み、句と書と読書の生活。本書など句集が市販されると、俳壇外の作家、詩人たちが注目した。
 阪神・淡路大震災で自宅全壊、寝屋川の老人ホームに移り、そこで亡くなった。

 コーべブックスが著作を出版していた。『冷位』『一休・存在のエロチシズム』『耕衣百句』など。
 耕衣については城山三郎『部長の大晩年』(2001年、朝日文庫)が詳しい。
 万杯のきつねうどんを喫しけり
 コーヒー店永遠に在り秋の雨

(平野)この3日間で紹介の文庫本は神保町すずらん通りのワゴン販売で。

2014年11月13日木曜日

文壇


■ 野坂昭如 『文壇』 文春文庫 2005年4月刊


単行本は02年文藝春秋、同年泉鏡花文学賞。

 野坂は1963年「エロ事師たち」で小説家デビュー。週刊誌ライター、CMソング作詞、放送台本、たまに業界人や作家たちとエロ映画新作上映会を催していた。
 65年、編集者に誘われて中央公論新人賞パーティー(受賞者は色川武大)、これが“文壇”デビュー。高校の先輩・丸谷才一に服装について尋ねた。当時の文壇の一方の雄・舟橋聖一に「子犬が尻尾ふる態で」挨拶。実は前夜、某料理屋の一室で舟橋と取り巻きたちに8ミリエロ映画を見せていた。

 舟橋は妖しい写し画、熱心に観入って、上映中、同席の何やかや口をはさむ中、一言もいわず、一巻十分ほどが終ると、若い付き人に酌をさせる。女はいなかった。……

 全6巻終了後、舟橋は鰻重をかき込んだ。
 前夜の今夜、野坂が「ニタニタ笑ってモゴモゴ挨拶」すると、

 舟橋は、季節に少し暑苦しい白のダブル、当方を認めるなり、シッシッといわんばかり、手の甲を上に振って、追い払う仕草、びっくりして離れた。

 ボスには嫌われたようだが、多くの先輩作家が認めてくれた。作家になるには、大師匠を戴くか、同人誌発表、懸賞小説応募という時代。野坂は30歳越えて雑文書き。しかし、吉行淳之介が絶賛し、三島由紀夫が「世にもすさまじい小説」と評した。
 吉行は彼を小説家として仲間に引き合わせた。

「君は梶山(季之)とは違う、ゆっくり書けば良い、ぼくは直木賞に推薦したのに、候補にもしないとはけしからん」。阿川(弘之)は、「あれは直木賞よりピュリッツアー賞だな」、近藤(啓太郎)「俺、吉行にいわれて推薦しようと思ってたのに葉書失くしちまった」、遠藤(周作)「君大阪? 神戸なの、どこ、灘区。ぼく六甲小学校やで」、……。

 68年「火垂るの墓」と「アメリカひじき」の2作で直木賞受賞。三好徹と同時受賞。二人受賞で自分は2作、というのがすっきりしない。東大は不合格だった、レコード大賞童謡賞の時は補作者がいた。これまでのことを思い出しても、自分はトップにはなれないのか、この先何を書けばいいのか、恐怖感がわく。
 新聞記者のインタビュー。

「戦後派、第三の新人と、色分けされますが、野坂さんはナニ派?」とっさに、「焼け跡闇市派とでもいうか」冗談のつもり。

 丸谷がペンクラブに推薦してくれたが、拒否する人がいた。大宅壮一の「ノンフィクションの会」に梶山が推してくれたが、異を唱える人がいた。

……文壇について、狎れ合い、仲間賞め、師弟関係、相互扶助の仕組みと、貶す向きもある、群れたがる目高。一方、「群像」元編集長大久保房男は、「文士が集り」「互いに切磋琢磨」「切り結び」時に喧嘩、絶交に至る、習練修羅場が文壇、親睦会ではないと断じ、四十年(昭和)に亡くなった、高見順が最後の文士らしい。文壇の衰退を認める。

 堅気の同年代の友人たちの批評は辛辣で的確。“文壇”の文芸時評を空々しく思う。

 1960年代後半“文壇”史。

(平野)

2014年11月12日水曜日

海野十三敗戦日記


■ 『海野十三敗戦日記』 橋本哲男編 中公文庫BIBLIO 2005年7月刊

元本は1971年講談社より。

 海野十三(うんのじゅうざ、本名・佐野昌一、1897~1949)、徳島県生まれ。父の転勤で旧制中学(神戸一中)時代を神戸で過ごす。逓信省電気試験所に勤めるかたわら技術専門書執筆。また推理小説、科学小説を発表、日本SF小説の父と呼ばれる。丘丘十郎(おかきゅうじゅうろう)など複数のペンネームを使っている。

目次
空襲都日記
降伏日記(空襲都日記第二部)
愛と悲しみの祖国に  橋本哲男
解説  長山靖生
付録  秘密の書斎
 
 二週間ほど前より、帝都もかねて覚悟していたとおり「空襲される都」とはなった。
 米機B29の編隊は、三日にあげず何十機も頭上にきて、爆弾と焼夷弾の雨をふらせ、あるいは、悠々と偵察して去る。
 味方の戦闘機の攻撃もはげしくなり、地上部隊の高射擊もだいぶんうまくなった。被害は今までのところ軽微である。
 これからさらに空襲は激化して行くであろう。そこで特に、この「空襲都日記」をこしらえ、後日の用のため、記録をとっておくことにした。
 昭和十九年十二月七日
 
 編者の橋本は学生時代に海野に師事、戦後毎日新聞記者。彼によると、海野は昭和13年に小説「東京空爆」(雑誌『キング』掲載)を書き、焼夷弾による東京空襲を予想、というより警告している。そのまま載せた雑誌も雑誌だが、海野は海軍報道部に呼び出され叱責された。「帝都上空には、敵機は一機も入れないのだ!」と。
 海野が自宅に防空壕を作ったのは日米開戦前の昭和16年1月。近所の人たちが不思議がった。防空壕の発想はずっと前にあり、その設計図が本書所収の「秘密の書斎」で、昭和13年12月号『新青年』に掲載されている。
 日記、はじめは余裕がある。敵機は少数で被害も軽微だった。近所の子どもたちも元気に騒いでいる。しかし、来襲回数が増え、各地の被害が耳に入ってくる。
 3月9日~10日、東京大空襲。長女を夫の実家・鹿児島まで送って行く。行き帰り、汽車から神戸の町並みが見えた。神戸も大空襲(3月17日)の直後。

……往路、車中より神戸の南部の工場地帯が今もなお燃えつづけているのを見て、「畜生、かたきをうつぞ」と心に叫ばしめた。帰途は車窓が山側に位していたので肝腎の南側の方は見られなかった。しかし、山側を見ていると、須磨迄は大丈夫であったが、林田区に入ると俄然大きく焼けていた。三菱電機の研究所のあった建物も焼けていた。湊川新開地も焼け、福原も焼けていた。市電の南側が少し残って、神戸駅迄に及んでいる。
 裁判所焼け、となりの市庁は無事。それから東へ行って北長狭の辺、三宮の辺が焼けていた。県庁は残っているが、菊水は空し。惜しいことだ。あのコレクションは。さらに東へ行って元神戸一中に至るあたりが焼け、グラウンドで延焼を喰いとめている様子。
 さらに東へ行って、御影が焼けている。線路ぞいに焼けていて、元の朝永の家も焼けてしまったように見える。
 岡東の話では、一中も三中も焼けたというが、とにかく山の手は静かに残っていて、なつかしい神戸の面影を見せていた。……

「菊水」は菊水酒造? 菊水総本店? 「コレクション」含め、今のところ不明。
「岡東(おかとう)」は一中の同級生、東京在住。「朝永」も同級生だろう。

 昭和20年12月31日の日記。
 ああ昭和二十年! 凶悪な年なりき。言語道断、死中に活を拾い、生中に死に追われ、幾度か転々。或は生ける屍となり、或は又断腸の想いに男泣きに泣く。而も配線の実相は未だ展開し尽くされしにあらず、更に来たるべき年へ延びんとす。生きることの難しさよ!
 さりながら、我が途は定まれり。生命ある限りは、科学技術の普及と科学小説の振興に最後の努力を払わん。
 ラジオにて寛永寺の除夜の鐘の音を聞く。平和来。昨年は「敵機なお頭上に来りて年明くる」と一句したりけるが、本年は敵機もなく、句もなく、寝床にもぐり込む。

(平野)

 林哲夫さんがブログでロードス書房・大安さんのことを。
 昨日、偶然大安夫人にお会いした。市会に行かれる途中。古書店は継続しておられる由。
 林哲夫ブログはこちら。
http://sumus2013.exblog.jp/

2014年11月11日火曜日

青い箱と紅い骸骨


■ 稲垣足穂 『青い箱と紅い骸骨』 角川書店 1972年(昭和47)10月刊

装幀 門田ヒロ嗣

 全12篇、自選作品集。足穂の絵も4点。
 表題作は『文科』(1931年)に掲載したものだが、同年『新青年』に発表した「びっくりしたお父さん」のヴァリアント作品。

 山と海のあいだの斜面にその都会はあるが、山も西方になると急に低まって、起伏する無数の丘々の重なりになってしまう。……

[私]は、西方の丘々の靄や霧は「死んだ人々の変形したもの」だと思う。[私]はかつて東方の山裾にある学校に通っていて、そこの地理に詳しい。

……西方に較べると、もう本当の山懐に属している部分だから、そこから海まで狭くなって、傾斜も急なので、夕方など山際の高い煙突から吐き出された、白い、しめっぽい煙が、ずっと下方の人家のあたりまでただようてきて、風向きによると、数時間も各戸の庭や座敷を閉じこめてしまうことがある。……

[私]は久々に帰省して、東方の丘に出向いてみた。見覚えのある建物があり、「狐につままれた気がする目に逢った」ことを思い出す。
 フカ汽船会社の別荘に招待された。舞踏会がいつの間にか当主の妹の葬式に。彼は妹の亡骸を抱いて踊る。

(平野)
11.2 神保町のワゴンで。