2019年4月11日木曜日

若山牧水 さびしかなし


■ 田村志津枝 『若山牧水 さびしかなし』 晶文社 2003年刊

 図書館本。

 著者は1944年台湾生まれ、長野県育ち、映画研究者でノンフィクション作家。著書、『悲情城市の人びと 台湾と日本のうた』、『台湾人と日本人 基隆中学「Fマン事件」』(共に晶文社)など。

 1910(明治43)年秋、若山牧水が信州小諸の病院に約2ヵ月滞在した。著者の祖父が開業する任命堂田村病院、まだ著者の父が生まれる前のこと。著者は祖母や父から牧水エピソードを聞かされて育った。酔っ払い、酒の失敗、使用人に好かれたことなど。

〈……父からほんとうにたくさんの牧水にまつわる話を聞いた。そしてそれをくりかえし語りあうことで、私は父とすごす最後の時間をなんとか埋めた。父には風流なところはほとんどなく、歌などにとくに興味があったとも思えない。この家に暮らしたあいだに牧水が残したエピソードも、酒好きの若者らしく無軌道もいいところで、誇らしく語れるものなどあまりない。けれど牧水には、父のような人をも惹きつけるところがあったように思われる。〉

牧水が恋の苦しみから酒浸りになり悪所通いの果てに感染した病気、その治療だ。
 担当したのは岩崎樫郎という若い医師。地元の歌の会に参加していて、牧水に手紙で添削を願った縁。岩崎は牧水の体面を慮って、院長に紹介もせず治療にあたったようだ。院長は牧水が歌人であることを知らず、山のように届く郵便物(雑誌編集部から投稿歌が転送されてくる)から、社会主義者が紛れ込んだのかと勘違いした。
 食客といえば聞こえはいいが、居候である。衣食住どころか、岩崎に借金までしている。治療費もどうだか。有名になりかけていた頃で、貧乏どん底だった。それでも牧水のまわりには地元の若い文化人たちが集まってくる。
 小諸を離れても牧水と岩崎の交流は手紙で続いた。旅の途中での再会を牧水が随筆に残していて、このとき小諸で出会った若者たち2名が肺病で亡くなったことを知らされる。22(大正11)年、岩崎も独立開業してすぐに亡くなった。

25(大正14)年、牧水は講演と揮毫の旅行で小諸を訪れ、田村院長に挨拶した。
「小諸なる君が二階ゆながめたる浅間のすがた忘られぬかも」
 二階の部屋で岩崎と語りあった。窓からは浅間山、千曲川、日本アルプスが眺められた。

〈……年若く貧しかった牧水が、恋愛に苦しみ心身ともにくたびれはてて身をよせたのが、わたしの祖父の屋敷のなかの一室だった。その偶然のできごとが、九十年あまりのちの私に、物語をたどりなおしてみるという喜びをもたらした。〉

(平野)牧水の愛しい人も小諸に来た。男女の縺れは金の話になっていた。

2019年4月4日木曜日

若山牧水

■ 大岡信 『若山牧水 流浪する魂の歌』 中公文庫 1981年

 図書館本。
 若山牧水の歌、紀行文、小説に現れた恋愛に焦点をあてる。神戸で出会った女性との恋は実らなかった。

〈……彼はほぼ五年の間、この恋によって、歓喜の絶頂と、懊悩、疑惑、憂悶のどん底とを経験した。歓喜の時は短く、懊悩の時は長かった。そして今日、人々に愛誦されている牧水の歌の多くは、この時代に書かれたものである。〉

 牧水は結婚するつもりでいたが、女性にはできない理由があった。牧水はその理由を知らなかった。失恋の後も、牧水は女性の面影を作品に残している。
 大岡が執筆時(昭和40年代後半)、全国に牧水の歌碑・文学碑が61あったそうだ。ネットで調べると現在300近くある。さすが「旅の歌人」である。
 大岡は牧水の歌について、

〈活字の森にとじこめられているよりも、海辺で松風に吹かれ、山上で小鳥の声に包まれている方が一層ふさわしいと感じさせるものをもっている。〉

と書く。

〈言いかえると、彼の歌は、彼自身の内面にではなく、彼を通して見えるようになった自然界に、じかにさわることを、私たちにむかって誘いかけてくるのである。〉

 大岡は旧制沼津中学出身、その沼津市千本松公園の歌碑は、

「幾山河越え去り行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく」

 この歌は彼女が上京して来て間もなく、牧水が中国路を旅したときの作品。彼女は広島出身。大岡はカール・ブッセ作(上田敏訳)の「山のあなたの空とほく~」を連想する。恋しい人を思う旅ということか。
 失恋による大量飲酒と放浪の旅やハードな歌会・揮毫の旅は明らかに彼の健康を害した。有名な歌人である彼にとって、地方で揮毫することは重要な経済活動でもあった。


(平野)ヂヂバカちゃんりん、孫がおとなしく本を持つわけがないので、代役アンパンマン。

2019年4月2日火曜日

余白の春 金子文子


■ 瀬戸内寂聴 『余白の春 金子文子』 岩波現代文庫 
1160円+税
 
 初出、『婦人公論』(中央公論社)1971年1月号~72年3月号。72年同社より単行本、75年中公文庫。

 関東大震災後の混乱の中、大杉栄・伊藤野枝だけではなく多くの社会主義者・無政府主義者が捕らえられた。金子文子と民族主義者・朴烈も「保護検束」の名目で逮捕され、大逆罪(皇太子暗殺計画)で死刑を宣告された。もとより無理筋の判決である。天皇の名による恩赦で無期懲役に減刑されるが、文子は拒否し、刑務所内で縊死した。遺体は刑務所の共同墓地に埋められたが、同志と弁護士が発掘して荼毘に付した。遺骨は朴の故郷の山中に埋葬された。

 瀬戸内は連載にあたり、元同志や朴の親戚に案内され、墓参りをした。

〈……私は薊の花を供える。花筒も水も何もない。雑草を抜くにはあまりにおびただしすぎる。素手で抜けるような草ではない。しかし雑草には雑草の花が咲き、紫や白やピンクや黄の、名も知らぬ小さな花々が、ほたるのように土饅頭の上を飾っているのだ。(後略)〉

 文子は朴を知ったのは彼の詩から。その力強さに感動した。文子も過酷な境遇=無戸籍、虐待、貧困を強く生き抜いてきた。彼と一緒に生きたい、一緒に死にたいと思った。ふたりが生活を共にしたのは1年半だけである。文子は大逆罪を進んで受け入れ、23歳の若さで自死した。短い春、短い一生を燃焼した。

 朴は日本敗戦後に解放され、朝鮮戦争中に北朝鮮に行き、そこで一生を終えた。

 映画「金子文子と朴烈(パクヨル)、元町映画館で公開中。
 
 

(平野)

2019年3月28日木曜日

神戸市立圖書館100年史


■ 『神戸市立圖書館100年史』 神戸市立中央図書館 
2012年刊 非売品

 
伊藤博文銅像設立と同じ年、1911(明治44)年3月、神戸市議会で図書館設立議案が可決。地元経済界から寄付金があり、篤志家から蔵書が寄贈された。11月、相生町(神戸駅の東)旧市庁舎を改装して市立図書館が開館。2階建て延床面積195坪。蔵書9000冊だが、整理・準備できたのは3400冊あまり。図書のカードで読みたい本を調べ、閲覧表に記入して、書庫から出してもらう。
当初、閲覧は無料だったが、翌年4月から有料になる。普通閲覧料1回2銭、特別閲覧料1回4銭、普通回数券15回分15銭、特別回数券15回分30銭(東京市電運賃大人4銭)。普通閲覧室、婦人席の他、特別閲覧室があり図書館功労者や館長が許可した人は貴重図書や冊数など優遇された。
15(大正4)年4月、館外貸出開始。普通貸出1回3冊まで20銭(延滞料あり)、優待者は無料。
優待者とは、功労者及び館長が認めた者、市区名誉職員、官公庁銀行会社等の要職者、官公立学校校長、直接国税10円以上納税者、以上の条件該当の保証人がある者。1920(大正10)年10月、大倉山に新図書館移転。延建坪607坪、本館1階に公開図書室、特別閲覧室、婦人閲覧室、館長室、事務室など、2階は大閲覧室、屋上に庭園、別に書庫5階建て。蔵書29000冊超。

 当時、菊田一夫(劇作家)は元町の美術商で奉公していた。店主の納税証明書を利用して本を借りた。

〈神戸市のうちでは住宅街として、粒がそろっている、といわれる中山手通りを、湊川の方向にむかうと、その右側の小高い丘に大倉山公園がある。その中腹に市立大倉山図書館がある。そこでは誰か保証人を立て、その保証人の納税領収書を示せば、館外貸出もしてくれる。和吉は珍物屋商会の主人に頼んで、納税領収書を貸してもらい、生まれてはじめての図書館通いをやった。〉(菊田の自伝小説『がしんたれ』角川文庫、1961年)

 菊田が図書館の前庭から見た100年前の神戸風景。

〈そこは神戸港を一目に見おろす丘の中腹でその白いベンチに腰をおろして見ると、遥かな兵庫地区の街並を越えて右手の海際には、川崎造船所の巨大なクレーンが工場地帯の煙にかすみ、そのずっと左手の海には、幾条かの突堤が欧州やアメリカにいく旅客船の折目正しい姿を抱いて浮かんでいる。)(同上)

 閲覧料・貸出料が廃止されるのは51(昭和26)年4月。 81(昭和56)年4月、現在の中央図書館開館。今は建物に遮られて、3階の閲覧室からも港は見えない。


(平野)『100年史』は貸出可能。『がしんたれ』は館内閲覧のみ。
《ほんまにWEB》「海文堂のお道具箱」「奥のおじさん」更新、最終回。リニューアルします。


 

2019年3月21日木曜日

若山牧水伝


■ 大悟法利雄 『若山牧水伝』 短歌新聞社 1976年刊

 大倉山の図書館で借りた本。私の目的は若山牧水(1885~1928年)の恋愛だが、ここでは先日の「伊藤博文」に関連した話を紹介。

 1908(明治41)年、牧水は早稲田大学を卒業。翌年7月、中央新聞社入社、社会部勤務。同社は伊藤博文・立憲政友会の機関紙的存在。10月26日、ハルピンで伊藤が安重根に狙撃され死亡。11月1日、横須賀港で牧水は伊藤の亡骸を迎えた。翌日の新聞に牧水が記事を書いた。

「霊柩を迎ふ 落葉雨の如き加納山」

〈藤公の遺骸海を渡つて今日横須賀の埠頭に着くと云ふ、東京より出迎への人々並びに横須賀市民は云ふも更なり付近の住民悉く心を一にして之を待ち受け此日粛然の気は夙(はや)く一帯の沿岸山野に溢れてゐた、市街の上なる加納山は付近の海上一面を瞰下し得る好地位にあるので午前八時頃からどやどやと押来る者引きも切らず瞬く間に其所等に人の山を築いて了つた、日極めて清和碧りに凪いだ遥かの海上に夫らしい煤煙を認めた時には皆云合わせた様に目前と名目叩頭し、何れも暗涙に咽んでゐた。(後略)〉

 牧水は伊藤の墓に参り、11月27日記事「秋は寝たり偉人の墓畔」も執筆(署名は木酔生)。
 ところが、社では社長と編集主幹が対立し、主幹一派が退社。牧水は主幹の縁で入社していたのでとばっちりを受け、退社を命じられた。約半年の記者生活だった。
 文学史本では、牧水と兵庫・神戸について芦屋在住の富田砕花との関係や歌会指導で語られることが多い。本書は母親の異母弟が神戸市相生町にいたことを紹介している。牧水は東京と故郷宮崎往来に際し(神戸・宮崎間は航路)、たびたび立ち寄っている。
 この神戸で、後に数々の恋の歌を捧げる女性に出会う。以前投稿した、俵万智『牧水の恋』(文藝春秋)を。


(平野)

2019年3月16日土曜日

天皇陛下にささぐる言葉


■ 坂口安吾 『天皇陛下にささぐる言葉』 景文館書店 
200円+税
 

 1946年の「堕落論」他、48年52年に発表した天皇論、平和論4篇収録。
 戦後昭和天皇が全国を巡幸。ある雑誌が市民の熱狂・歓迎ぶりを「天皇は箒である」と諷刺した。不敬という批判が起きたが、安吾は雑誌の味方をした。

 

〈天皇が人間の礼節の限度で敬愛されるようにならなければ、日本には文化も、礼節も、正しい人情も行われはせぬ。いつまでも、旧態依然たる敗北以前の日本であって、いずれは又、バカな戦争でもオッパジメテ、又、負ける。性こりもなく、同じようなことを繰り返すにきまっている。/本当に礼節ある人間は戦争などやりたがる筈はない。人を敬うに、地にぬかずくような気違いであるから、まかり間違うと、腕ずくでアバレルほかにウサバラシができない。地にぬかずく、というようなことが、つまりは、戦争の性格で、人間が右手をあげたり、国民儀礼みたいな狐憑きをやりだしたら、ナチスでも日本でも、もう戦争は近づいたと思えば間違いない。〉
 
 神戸の三田産業はじめ安吾復刻が続いている。2月から4月にかけて本書含め5冊出るそう。

(平野)復刊ドットコム糸さん情報で知る。値段間違っていません。32ページのブックレット。

2019年3月14日木曜日

神戸の歴史 第27号


■ 神戸市史紀要『神戸の歴史』第27号(平成30年12月) 
「県政150年」「明治150年」に寄せて――大倉山公園にかかる新しい史実等を踏まえて―― 編集・発行 神戸市(文書館) 
500円税込 

研究論文
瀧井一博 開港期神戸と初代兵庫県知事伊藤博文   
津熊友輔 伊藤博文銅像・台座と大倉山公園     
山本一貴 幻の神戸市公会堂の建設計画と設計競技  
資料編
伊藤博文の銅像・台座に関する史料の翻刻
幻の神戸市公会堂のコンペ(大正・昭和)の設計図

 伊藤俊輔(のちの博文)は長崎で倒幕戦争のための武器を調達していた。京に向かうため、1868年1月1日(慶応3年12月7日)、イギリス軍艦ロドニー号に乗り、長崎から神戸に来た。当日はちょうど神戸開港の日。2日後、京で王政復古宣言がなされる。一月後、伊藤神戸再訪。このとき備前藩と外国人兵士による「神戸事件」勃発。伊藤はイギリス公使と交渉、処理にあたった。さらに開港行政の責任者に就任する。

 大倉山公園は広大な丘陵で、野球場あり、児童用遊具あり、全国の植物を集めた「ふるさとの森」あり、ジョギングコースにもなっている。近隣に市立中央図書館、文化ホール、中央体育館、神戸大学病院、学校、湊川神社、大きなお寺もあるという場所。最近はマンションがたくさんできている。
 公園敷地は実業家・大倉喜八郎の別邸跡。伊藤は大倉と関係が深く、兵庫県知事時代にこの別邸を利用した。1909(明治42)年伊藤が暗殺された後、大倉が神戸市に寄付、公園として市民に開放することを条件とした。11年、伊藤の銅像が建造されたが、太平洋戦争で金属供出、現在は台座のみ残っている。
(平野)
 
ゴロウちゃんのイベント
■ イシサカゴロウ展 みえるものみえざるもの
3月20日(水)~31日(日) 10:00~19:00(最終日16:00まで) 25日休み
ポートピアギャラリー(ポートピアホテル内)